人類が消える世界

「人類が消えた世界」という本を読んだ。 これは、アメリカのジャーナリストが書いた ノンフィクションで、この春に邦訳が出て以 来、日本でもずいぶん売れているらしい。
 たった今、全人類が一斉に消えてしまった ら我々が作り上げた文明の遺物はどうなるの か。致命的に破壊されつつある自然環境はど うなるのか。これについて世界中の様々な分 野の専門家に取材してまとめたのがこの本な のだけれど、SFとルポルタージュの長所が 見事に同居していてとても面白い。何となく 、小松左京の長編小説を思わせるところがあ る。
 小松左京の「こちらニッポン」は、世界中 に数十人、あるいは数百人の人間を残して人 類が突如消え去ってしまう話だったけれど、 「日本沈没」にせよ「復活の日」にせよ、数 十年前に彼が書いた破滅的な未来がいよいよ 現実のものとなってきたということなのかも しれない。ここのところ、小松左京の近況が 全く伝わってこないのが気になるけれど、彼 ならこの本にどんなコメントを寄せるのだろ うか。
 「人類が消えた世界」によれば、人類が消 えて数千年、数万年もすれば我々の痕跡はほ とんど全て消滅してしまって、地球は再び野 生生物が栄える星に戻るらしい。プラスチッ クごみも遠い未来には新たに出現する微生物 に分解されてしまうそうだし、我々が作り出 した放射性物質もいつかは半減期を迎える。 これまでの四十億年の地球の歴史の上ではそ れはほんの短い時間に過ぎないし、これから 五十億年もすれば、地球は膨張する太陽に呑 み込まれて消滅してしまう。数万年しかない 現世人類の歴史なんて何ほどのこともないこ とがこれでよく分かる。
 今世紀の中頃に我々の文明は破局を迎える 、という別の学者の意見も私は聞いたことが ある。文明の破局というと何か遠い未来のこ とのように思いがちだけれど、それはもしか したら我々の世代のうちにやってくることで あるらしい。これだけ傍若無人に資源を浪費 して様々なごみをまき散らし、爆発的に人口 を増やしている我々を考えると、それも道理 だと私は思う。
 微生物の培養実験をやったことがあるひと ならよく知っていると思うけれど、生存に最 適な環境を用意してやると微生物は急激に増 殖を始める。その様子は産業革命以来、急激 に人口を増やしている人類と全く同じである 。そして、培地の中でこれ以上増えるのが不 可能な限界を迎えると、しばらく微生物の数 は横ばいで推移するけれど、いずれ栄養の不 足と老廃物の蓄積によって急激にその数が減 り始める。新鮮な培地に微生物を移さない限 り、この衰退を止めることはできない。近々 人類もその頽廃を迎えるのだろう。それに立 ち会うことができるのは、もしかしたら我々 の世代に与えられた前代未聞の楽しみなのか もしれない。この幸運(?)を無にすること が無いよう、しぶとく生き残りたいものであ る。致命的な環境破壊と人口爆発、そして社 会制度の腐敗をくい止めることができないの は、もしかしたらこの文明の生物学的な必然 なのかもしれない。
 私の少年時代、「未来少年コナン」という 名作アニメがあった。最終戦争の後わずかに 生き残った人類が、豊かな自然が回復した地 球で新たな社会を作り出そうとする魅力的な 物語だったけれど、現実がこれからあの物語 を後追いしてゆくのかもしれない。ただ、人 類の滅亡といったカタストロフィーは、SF の世界では最終戦争のように一瞬のうちに起 こることになっているけれど、種の滅亡とい う事態はもっとゆっくり起こるものであるら しい。きっと何百年もかけて、人類は苦しみ ながらゆっくり滅んでゆくのだろう。私の大 好きな「マルドロールの歌」みたいだ。
 ただ、人類を捕食する新たな高等動物が現 れない限り、我々が完全に滅亡することには ならないらしい。「人類が消えた世界」によ れば、いかに強力な病原菌が現れても、自然 な免疫でそれに打ち勝つ人間がごく少数は必 ず存在する。生命とはなかなかしぶといもの だと思う。核戦争が起こっても、何とか生き 残るひとが必ずいるのだろう。そこからまた 人類の歴史は続いてゆくことになる。
 それにしても、これほどの浪費と環境破壊 を許してまで人類の技術文明を肥大させた、 この自然の真意はどこにあるのだろうか。
 現在の技術文明には何らかの目的があって 出現したはずだと私は考えている。これは、 決して人類の繁栄と享楽のために出現したも のではないはずなのだ。つまり、地球にとっ て人類が出現して文明が肥大したことにはど んな目的があったのか、ということを考えて みたい。要するに、これは哲学の古典的な命 題である「我々は何のために存在するのか」 、あるいは「世界は何のために存在するのか 」という問いに私がこの場で答えてみよう、 という無謀な試みである。しかし、それはそ んなに難しいことではない。
 以前も私は書いたことがあるけれど、人類 が滅亡しても、NASAが打ち上げたパイオ ニアやボイジャーといった探査機に積まれた 人類のメッセージはこれから十億年以上の間 、太陽系外の宇宙空間を飛び続ける。地球上 に残された人類の痕跡は数万年で消え去って しまうけれど、十億年という時間は、百億年 程度という宇宙の歴史に比べても決して短い 時間ではないだろう。また、人類が発した電 波は、そんな探査機よりもずっと長い時間、 この宇宙を飛び続ける。それによって、この 地球が存在していたという事実も宇宙の歴史 の中に刻まれる。これらのメッセージには、 人類の文明だけではなくて、地球の美しい自 然についての情報も含まれているからだ。こ れは、人類を通してこの地球が発している声 なのかもしれない。
 こんなことは、人類の文明が現在のように 肥大しなければ不可能なことだったはずだ。 いかに地球が美しく生命にあふれた星であっ ても、我々の文明が出現しなければ地球の存 在は宇宙の歴史に刻まれることなく消え去っ てしまう。つまり、地球の存在を宇宙の歴史 に刻むために人類は出現した、と私は考える 。これほどの浪費と環境破壊という犠牲を払 ってまで、この星はそれを求めた。逆に言え ば、その目的が果たされてしまった今、人類 の使命は終わってすでに用済みになってしま った、とも言えるだろう。
 「世界精神」というのはヘーゲルの用語だ ったと思うけれど、やはり宇宙や物質よりも 先に何らかの理念が存在するのだろうと私は 思う。その理念の表現がこの宇宙、この世界 である。それを内側から検証して記録するた めに、人類という未熟な知性が必要になる。 それは、理念と物質の共同体である生命の形 をとってこの宇宙に出現することになる。
 理由は分からないけれど、理念というもの はたとえ不完全であっても表現され実現され ることを望むものらしい。だから「世界は何 のために存在するのか」という問いは最初か ら間違っているということになる。世界精神 が表現されることを欲したからこの宇宙は出 現した、というのがいちばん適切な答えのよ うに私には思える。そして、表現に完璧とい うことはあり得ない。それは常に不完全なも のでしかない。しかし、それは二度と起こら ないことなのだからかけがえの無い価値があ る。そのくらいのことは私にも分かる。何だ かこれは物理学の法則に似ている。
 人類が欠陥だらけの生き物なのに、生命や 宇宙の原理がそれとは比較にならないほど精 妙で美しいのはそう考えると納得できる。手 塚治虫の「火の鳥」で、世界精神となってし まった火の鳥が、地球に文明を育てようとし てナメクジに知性を与えてしまう話があった けれど、人類の文明もこれと同じことではな いか、という気がする。欠陥だらけではあっ ても、宇宙の歴史にやっと痕跡が残せる程度 の文明が地球上に実現できればそれで良い。 それをなし遂げてしまえば、もはや人類には 何の用も無いので滅びるにまかせる。その程 度の前提で人類の繁栄と浪費が許されてきた のかもしれない。おそらく、完全で高尚な文 明を作り上げる余裕はこの地球には無かった のだろう。
 あとは「未来少年コナン」のように、この 文明の破局を生き延びたごく少数の人類が、 再生した豊かな自然の中で再び生き続けるこ とを私は夢みていたい。精神的にも肉体的に も宇宙空間に進出するのが不可能な我々にと って、それがいちばんふさわしい、しかも楽 しい未来であるように私には思える。やはり 、ここはしぶとく生き続けたいものである。


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