変な国

筒井康隆の初期の短編を集めた「にぎやか な未来」を初めて読んだのは私が小学校六年 生の頃だったと思う。少年だった私は、星新 一や小松左京の短編とあわせてこの本を何度 も読み返した。残念ながら、ここに集められ た短編は、現在はテーマ別のアンソロジーに 分散されて収録されているようで「にぎやか な未来」という短編集を新刊として入手する のは不可能らしい。私としては、ショートシ ョートは「にぎやかな未来」のように、書か れた時期でまとめた方がいろんなことが読み 取れて面白いと思う。
 ここに集められた短編が書かれた時期は六 十年代前半、作者がサラリーマン生活から職 業作家へと転身する時期に当たるだろう。こ れは完全なフィクションであるにもかかわら ず、当時の世の中の雰囲気や作者のサラリー マン体験が色濃く反映されているように思え て、今読み返してみるとそのへんがとても面 白い。
 作者が決して愉快なサラリーマン生活を送っ ていたわけではないのは周知の事実だと思う けれど、これが書かれた当時、筒井康隆に限 らず若くて無名のサラリーマンはどんな思い で生きていたのだろうか。彼らは今の我々よ りも幸福だったのか、希望があったのか。こ の頃はオリンピックや万博を控えた時代だっ たと思うけれど、その時代における「未来」 とはどんなものだったのか。まだまだ遠かっ た「二十一世紀」という言葉はどんなふうに 響いていたのか。もちろん、筒井康隆ほどの 才人には平凡な若者よりもずっと深くそれが 見えていたのは確かだろう。
 「にぎやかな未来」には、そんな作者のや りきれなさがこめられているように私は思う けれど、それを乾いた笑いでいなしてしまう のが筒井康隆の優しさなのかもしれない。「 暗黒世界のオデッセイ」のように救いの無い 未来を語ったエッセイも彼にはあるけれど、 「にぎやかな未来」ではその暗さを前面に押 し出すことは無いように私には思える。
 筒井康隆だけではなくて、少年だった私が 熱中して読んだ星新一も小松左京も、未来が 無条件に明るいものだというメッセージを発 することは無かった。にもかかわらず、そこ には希望ともあきらめともつかない不思議な 潔さがあった。だからこそ、この三人の作家 は読者の気持ちをつかんだのだろうという気 がする。
 星新一にも小松左京にも不本意なサラリー マン生活の経験があるわけだけれど、この才 人たちは二十一世紀初頭のサラリーマン生活 をどんなふうに予見していたのだろうか。機 械文明の発達で仕事がわりと暇になって、失 業者も出るけれど今ほどの貧困も格差もエコ ・ファシズムも存在しない、そんな世の中を 予想していたように今の私には思えるけれど 、それともこれは彼らの切ない願いであって 、現実にはやはり今のような生きにくい世の 中が来ると考えていたのだろうか。そこを私 は訊いてみたい気がする。
 インターネットや携帯電話のように、あの 時代には誰も予測できなかったものが実現し て普及したのも確かだけれど、この三人の作 家が予見していた暗い未来は今、見事に実現 されつつあるように思う。
 「にぎやかな未来」には仕事に追われて心 身を病むような未来は描かれていないけれど 、筒井康隆には「急流」という短編があった 。それは、二十世紀末が近づくにつれ、時間 が急流のように速く流れて世の中が崩壊して しまう話だった。これはやたらに雑用が増え てろくに休む暇も無い二十一世紀初頭を予見 していたのだと考えることもできるだろう。 星新一にも小松左京にも、こんなふうにやた らと忙しくなる未来が描かれている作品があ った。
 それにしても、そんな作品が発表された当時 、「モーレツ社員」という言葉はあったけれ ど「過労死」なんて言葉は無かったと思う。 私が物心ついた七十年代後半には終夜営業の コンビニもなかったし、こんなにがつがつ働 かされることも無かったはずだ。今思えば皆 もっとのんびり生きて、夜は暗く静まり返っ てよく眠って、要するに今よりもずっとまと もな生活をしていたと思う。我々はそれを特 に不便に思うことも無かった。先日の新聞で 目にした「眠らず休まずおかしな社会」とい う見出しの投書が私には忘れられない。
 私は常々不思議に思っているのだけれど、 我々の身の周りであたりまえのように使われ ている電化製品の多くは、三十年くらい前に は全く存在していなかったものなのである。 それでも我々は楽しく生きていたのを忘れた くない。「その便利さを覚えてしまうともう 手放すことはできない」と言う奴が私の周り にも多いけれど、それが私にはよく理解でき ない。いやおうなしに貧乏生活に突入してし まえば、そんなものとはたやすく縁を切るこ とができるのだが、拡大するぜいたくに慣れ てしまった世間知らずにはそれを想像するこ とができないらしい。不思議である。
 今、ぜい肉と濁った瞳を抱えた奴に限って 「生活が苦しい」とたわごとを漏らしたりす るものだが、そんな連中はこの時代の蟻地獄 にすりつぶされて滅びてしまうのが分相応だ と私は思う。ガソリンの値段だってもっと上 がれば良いとさえ私は思う。切実にガソリン を使っているひとがそんなに多いとは私には 思えないからだ。
 つまり、不要な便利さを受け入れるたびに 我々はお金の魔力に捉えられ、忙しさに踊ら されるようになる。心身の健康も自分たちの 時間も犠牲にして我々は働かされる。真綿で 首を締められる、とはこういうことを言うの だろう。大方の連中は、それをどうしてこん なに素直に受け入れてしまうのか、私には不 思議で仕方が無い。
 そんなふうに、過労死寸前まで働き続けて いる連中は、もはや人間ではなくて資本主義 のゾンビではなかろうか、と私は思ってみた くなる。あんなにがつがつ働かされて平気な 顔をしているのはいったいどんな了見なのだ ろうか。私のように、わがままを通してそこ から逃げ出そうとは考えないのだろうか。生 きる道は他にいくらでもあるということを彼 らは知らないのだろうか。
 私はうつ病と腰痛を併発して仕事を辞めた ことがあるけれど、たとえ全快したとしても 、もとの職場に戻るつもりは全く無かった。 職場復帰と言うと聞こえが良いけれど、働き 続けることができないほど自分を追い込んだ 職場に戻ろうと努力を続ける連中が多いこと が私には信じられない。また、過労死寸前で 残業手当てももらえずに首を切られて、それ でも「職場が好き」と言う連中の気持ちも私 には理解できない。
 私は仕事に全力を尽くしたという自信があ ったので、心身の病気は「もうこの仕事は自 分の中で終わったのだ」というメッセージと して理解する他に無かった。もはや休養して 別の世界を目指そうと決心するしか道は無か ったのだ。貧乏したって何とか生きてゆける だろう、という根拠の無い確信も私にはあっ たし、病気の再発を恐れながらもとの職場に 戻る勇気は私には無かった。従業員がひとり 倒れたところで職場の環境が改善されること など期待できないからだ。
 病気や障害は、そんなふうに新しい生活に 踏み出すための啓示なのかもしれない、と今 の私には思えるけれど、そんな心身の声に耳 を傾けることができずに闇雲に働き続けよう とする連中は、やはりゾンビと称するしかな いのではないか。いったいみんな何を考えて 生きているのだろう。これでは病気をした意 味が無くなってしまう。ひきこもって社会か らドロップアウトする連中の方がまだ私には 理解できる。
 もしかしたら、江戸時代の百姓、あるいは 米騒動を起こした大正時代の庶民の方が、今 の我々よりもずっとまともな人間だったので はないか、という気もする。彼らは、決して 現在のサラリーマンのようにただ働きに甘ん じる愚か者ではなかったからだ。いざとなれ ば団結してお上に直訴したし、一揆や打ち壊 し、逃散といった過激な実力行使にも出たの である。庶民にそんな力が備わっていたから こそ、その時代には支配者も覚悟を持って生 きていたのではないだろうか。そんな、のん びりしてはいるけれど緊張感がある世の中が 私の好みである。
 ホワイトカラーの必読紙である日経新聞に は読者欄が無い、ということを指摘したひと がいたけれど、誰もそれを不思議に思わず「 勝ち組」は嬉々としてあれを読み続けている 。日経新聞だけでなくて、ちまたにあふれる ビジネス雑誌なるものにも読者の論文が載る 余地は無いらしい。彼らは上から与えられる 情報を受け取るだけで満足していることにな る。彼らには、お客や取引先に雄弁に説明す る能力はあっても、世の中に何かを訴える意 思が無いのだろう。大学や大学院を出た日本 のホワイトカラーの能力は実にいびつで奇怪 なものではないか。彼らが政治や経済や文化 や暮らしを論じる場が飲み屋以外に存在しな い、ということを誰も不思議に思わない。こ れは驚くべきことではないのか。
 携帯電話は便利な道具というよりも、支配 され管理されるための道具だと私は思うけれ ど、我々には堂々と意見を述べる場が無いか らこそ、あんな姑息なメディアが横行するの だと私は思う。あげく、それに踊らされて往 来で刃物を振り回す馬鹿者が現れることにな る。そんな携帯電話の新しい機種が発売され ると、店の前に行列を作る連中が何百人もい る。彼らは本当に嬉しそうだ。誰に頼まれて いるわけでもないのに、支配され管理される ことを無上の喜びとする連中が世の中にはた くさんいることがこれでよく分かる。
 ところで、筒井康隆がデビューした頃「家 畜人ヤプー」という小説があった。私はこれ を読んでいないけれど、ヤプーとは近未来に おいて奴隷あるいはマゾヒストになってしま った日本人のことだと聞いたことがある。こ の小説の未来予測も当たりつつあるのだろう か。いずれにせよ、こんなに不気味で変な国 にこれからずっと住んでいられる自信が最近 私には無くなってきた。いったいどうすれば 良いのだろう。おじさんがステテコ姿で庭に 水をやっているような田舎なら、まだ安心か もしれない。それとも、私のような人間は、 いずれ真剣に日本脱出を考えなくてはならな い時代がやってくるのだろうか。困ったもの である。


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