ねがい

黒川伊保子というひとが書いた「恋愛脳( LOVE BRAIN)」という本を読んだ 。このひとは人工知能を研究する在野の科学 者で、彼女が十年くらい前に書いた「恋する コンピュータ」という本のことは私はとても 愉しく記憶している。
 「恋するコンピュータ」は最近書店で見か けなくなってしまったのが残念だけれど、言 語学や音楽から始まった話が、生まれたばか りの著者の息子が言葉を獲得してゆく過程に 流れこんで、読者に柔らかな思考をさし出し てくれる。その中でいちばん感動させられる のは、著者が幼い息子に「ママのお腹に来る 前は、どこにいたの?」と問うところなのだ けれど、それに対する彼の答えはあまりにも 優しくてここに書くのは忍びない。その答え は懐かしいようなまぶしいような、耳を澄ま せたくなるようないとおしさにつながってい る。著者は本当に育ちが良い、素敵な女性な のだろうと私は想像した。
 そんなわけで、「恋するコンピュータ」は 私の本棚に大切に並べてあるのだけれど、そ れから五年後に書かれた「恋愛脳」には少し 窮屈な印象を受けた。「恋愛脳」はもともと 女性の読者を念頭において書かれたというこ となので、男性の前で語られることの無い、 大人の女性の心得のような部分にはとても納 得させられるところがある。それは男性にと っても大切な教えだと私は思うからだ。
 ただ「恋愛脳」の副題は「男心と女心は、 なぜこうもすれ違うのか」となっていて、そ の原因を著者は男と女の脳の違いに帰してい る。それは、右脳と左脳をつなぐ脳梁という 部分の太さの違いということになるのだそう だ。そのせいで、右脳と左脳の連携の仕方が 男女では異なる、というわけで、それが男女 の情報処理の仕方、つまり世界観の違いとし て現れるということになるらしい。そこから 説き起こせば、男女の機微の違いは確かに著 者の言うように綺麗に説明できる。
 しかし、明快な前提から導かれる明快な結 論というものに私は深く納得することができ ない。こんなふうな、綺麗に過ぎる説明は上 滑りな印象をまぬがれないと思う。著者の言 うとおり、この本は科学論文ではないのだか ら、著者の前提を越えた事例をも取り上げて 、それと真剣に格闘してほしい。それが現実 というものだと思う。そのあげく、もっと歯 切れの悪い結論を出してほしい。その悪戦苦 闘が読者を深く納得させると私は信じたい。 要するに、頭の良いひとが全力を振り絞って 書いていない文章を私は受け入れることがで きないのだ。余談ながら、明晰で美しい女性 がそんなふうに悪戦苦闘するのは何にも増し て魅力的である。男にとってこれ以上の挑発 は無いだろう。
 かつて、私は年下の女性から男女の機微の 違いについての嘆きを聞いたことがあるけれ ど、男と女の違いは生命にとって本質的なも のとは思えない、と私は答えた記憶がある。 それは、物心がついて以来ずっと変わること のない私の思いであるし、生物学をかじる過 程でそれはより確かなものになった。幸いな ことに、彼女には私の言い分を受け止めてく れるだけの理知があった。
 性というものは、進化の効率のために生ま れた便宜的な制度である、ということは生物 学を少しかじれば分かることだと思う。この 世には性の区別を持たない生物、あるいは自 在に性が入れ替わる生物の方が圧倒的に多い 。ヒトのように、一生を通して性が固定され ている生物の方が特殊なように私には思える 。まして、人間の男女の機微の違いなんても のは、人間どうしの約束事に由来するつまら ないフィクションでしかないはずだ。そんな ものを、脳の構造にかこつけて真面目ぶって 議論するのは馬鹿げている。それをもとに「 男というものは」とか「女というものは」な んて一般論の決めつけをされては迷惑このう えない。そんなものは、ほどほどに聞いてお けばよいのだ。
 その、「恋愛脳」の著者が指摘する脳梁の 太さの違いにしても、それは胎内にいる時に 受ける男性ホルモンの副次的な影響で形成さ れるものなのだそうだ。これはどうやら胎児 の成長の必然というわけではなさそうである 。遺伝子で決まっていることでさえないのだ 。その程度の違いを、天命に先んずる違い、 つまり先天的な違い、と称するのは不敬なこ とのように私には思える。それは、遠いとこ ろで障害者への差別につながってしまうと思 う。それに思い至れないひとはこんな文章を 書くべきではないだろう。要するに、頭の良 いひとは、それにふさわしいだけの闇をくぐ り抜けて、自由と強さを身につける必要があ ると私は思っている。
 「君の自由についてゆけない奴が世の中に はたくさんいるってことを忘れない方がいい よ」と長いつきあいになる友人に言われたこ とがあるけれど、生き方は異なるにせよ彼も ずっと独身を通している。自由は他者を遠ざ けてしまうことがあるみたいだ。どうしてな のか私にはよく分からないけれど。
 それはともかく、私は世間で言うところの 男性的な思考の持ち主ではないようなので、 こんなふうに甘美な自由と絶海の孤独を生き ることになる。生前のフランツ・カフカのよ うに、と言うのはおこがましいけれど、多く のひとに信頼されて、たくさんの友人に恵ま れて、時には美しく魅力的で強靱な意思を持 った女性とめぐり会うことができる私は確か に幸せだと思う。けれど、それで私の孤独が 癒されることはあり得ない。それも私にはよ く分かる。孤独は尽きない泉のようなものだ と実感する。
 そんなふうに孤独を持て余す男は、しばし ば同性愛に走るものなのかもしれないけれど 、あいにく私にその気配は全く無い。それは 、本当に魅力的な女性の奥深いところに隠さ れている「男」の美しさと凛々しさを私は知 っているからだと思う。
 私が好きになる女性は、たおやかな女性で あっても例外なくそんな高貴な「男」を深い ところに持ちあわせている。おそらく私にだ けそれが見える。それに比べれば、男性が持 っている「男」なんて本当に薄汚くて卑小な ものなのだ。私には、そんなものを愛する男 の気が知れない。逆に、私の奥に隠されてい る「女」は、女性はもちろんのこと、並の男 性のそれには及びもつかないほどたおやかで 美しいものと自負している。私には他の男性 の「女」を愛する必要も無いのである。結局 、魅力的な女性の中に、私は女性と男性のふ たつの美しさを同時に見い出すことができる 。その、とんでもない快楽を知っているひと がはたしてどれだけいるのだろうか。
 そんな自覚を持って生きるひとはほんの少 ししかいないみたいだけれど、もしかしたら 、私の大好きな南方熊楠が、外見の男っぽさ に反して、そんな「女」を奥深くに持ちあわ せた男だったのではないか、という気がする 。では、たおやかな美しさにかかわらず、高 貴な「男」を持ちあわせた女性と言えば、同 時代では私はギタリストの村治佳織さんを挙 げる。そうすれば私の言いたいことが分かっ てもらえるかもしれない。村治佳織さんのコ ンサートで接した、あの美しく楽しく強靱な 印象は忘れられない。
 それとは少し異なるかもしれないけれど、 小説家の尾崎翠もそんなふたつの魅力を持っ たひとだったと私は思っている。しかし、尾 崎翠を読み返すのは今の私にはとても切ない 。彼女の故郷である鳥取の岩井温泉はこれま で三度訪れたけれど、そこで彼女の思い出を 守り続ける年配の女性には「男性で翠を訪ね てきたのはあなたが初めてですよ」と言われ て私はとても驚いたことがある。尾崎翠のよ うに切なく強い恋をする男はそんなに少ない のだろうか。改めて私は尾崎翠の孤独の深さ を想うことになる。私にはそれが許されるよ うな気がする。
 結局、尾崎翠を読み返すかわりに、私は今 井美樹の新作「アイ・ラヴ・ア・ピアノ」を 何度も何度も聴き続けている。一枚のアルバ ムをこんなに何回も聴き返すのは本当にひさ しぶりのことになる。これは、悲恋でもなけ ればただのハッピーエンドでもない美しい恋 の歌なのだけれど、今井美樹の歌声と七人の ピアニストが奏でる音が私にいろんなことを 教えてくれる。
 そして、私は遠い町に住み始めたひとのこ とを考え続けている。そのひとは、本当にひ さしぶりに私の気持ちの一部を私の外に持ち 出してしまったのだ。それを自分から無理に 消してしまうことは私にはできない。私の奥 にある「女」がそれを許さない。改めて私は 試練にさらされることになる。しかし、私は それで心身を病むことはない。私の「男」が それを許さない。以前にも増して私は健康で ある。本当に不思議なことなのだけれど、こ れまでの私が繰り返し味わってきたような種 類の苦痛がこの先に待っているとはどうして も思えないのだ。こんなに穏やかに気力が満 ちていることはかつて無かったとさえ思う。 それでも、私はこれから広大な光と闇の中に 連れ出されることになる。私の願いはどこに あるのだろうか。


[ BACK TO MENU ]