まなざし

ギリシャ神話のことは私はよく知らないけ れど、確か、手に触れるもの全てが黄金に変 わってしまう能力を授けられた王様の話があ ったと思う。
 その王様は、最愛の娘までも不用意に黄金 の彫像に変えてしまったのを深く悲しんで、 その力を神様に取り消してもらうことになる 。もちろん、物言わぬ彫像となってしまった 娘を、ぬくもりのある人間に戻すためだ。
 神話というものは、人間の普遍的な悲しみ を伝えていると言われるけれど、この王様の 悲しみは、平凡な我々の悲しみと実は同じな のではないか、という気がして私は忘れるこ とができない。
 我々は手に触れるもの目に見えるものを黄 金に変えることはできないけれど、実はとて つもなく豊かなこの世界を、まるで黄金を鉛 に変えてしまうように手に触れ目に見ている のではないか、という疑念が私にはある。も しそうだとすれば、これ以上に悲しくて孤独 で貧しいことがあるだろうか。武満徹のエッ セイに、「私たちの耳は本当に聴こえている か」というようなタイトルがあったと思うけ れど、このひともそんな絶海の孤独を生きた ひとだったのではないか、と勝手に思ってみ たりする。
 それと比べるべくも無いけれど、他者の目 にこの現実がどう見えているのか、そもそも 彼らに本当にものが見えているのか、疑念と いうより不安にかられることが私にも無いわ けではない。
 あるいは、ひそかに好意を寄せるひとに私 の写真を選んでもらったりすると、実に意外 な写真を選んでくれることがある。そんな時 、不思議な嬉しさと同時に、そのひとの、私 とほんの少し違った世界をかいま見たような 感動を覚える。このひとの透き通った美しい 瞳は、こんなふうにこの世界を見ているのか もしれない。そのことが私の写真を通して現 れてくる。これは写真家の至福のひとつだと 思う。尾崎翠の短編「地下室アントンの一夜 」にこんな一節がある。「それから、人間の 肉眼というものは、宇宙の中に数かぎりなく 在るいろんな眼のうちの、わずか一つの眼に すぎないじゃないか。」
 しかし、こんな体験は滅多にあるものでは なくて、世間の人々の多くは、まるで干から びた荒野のようにしかこの世界を生きていな いみたいだ。
 それが「短く苦しい人生」ならば切ない喜 びもあるのだろうけれど、彼らが生きるのは 「長く退屈な人生」である。我々は皆、黄金 色の風の中を生きる神話の登場人物なのに、 それに気づくことなく冷たい風の中でしか彼 らは生きられない。お金が与える幻想と、子 どもだましのつまらない娯楽だけが彼らの生 を支えている。彼らは自身の哀しみを知るこ とは無い。それと向き合う勇気も無い。そん な人に限ってひとを傷つけても平気な顔をし ているものだが、私としては、その人を憎み 嫌うよりも、その人さえ知らないその哀しみ が私の身に染みてきてとても切なくなる。私 自身の悲しみならばすぐに涙は止まるのだけ れど、他人の哀しみは際限が無い。それは私 の気持ちの中の毒、まさに「気の毒」になっ てしまって、その人は本当に気の毒な人だと いうことになる。これを「闇」とか「無明」 と言うのだろうか。
 もしかしたら、私は幸せに過ぎるのかもし れない、と思うこともある。幸せであろうと することに貪欲であろうと日頃から私は自分 に言い聞かせているけれど、それさえも知ら ない凡庸な人から見ると、私は本当に極楽と んぼのように見えるらしい。干からびた荒野 の中を極楽とんぼがぱたぱた飛んでいるのは 、凡庸な人にとってはずいぶん気にさわるこ となのかもしれない。
 私をおもんばかってつきあい続けてくれる ひとは本当に優しいひとばかりなので、世間 の人間の多くは優しいひとなのだろう、と私 は今まで何となく思ってきたけれど、どうも そうではないみたいだ。ならば、この世は地 獄以外の何物でもないはずだ。そんな無限地 獄に未練をかけながら、平気な顔をして生き 続けている他人の群れが私には信じられない 。幼い頃、この世界で本当に生きているのは 自分だけではないのか、他人はすべてかりそ めのロボットではないのか、という疑念に私 はとらわれていたことがあるけれど、あの疑 念はある程度正しかったのかもしれない。こ れは恐ろしい真理だと思う。
 そんな、世間という枯れ木に花を咲かせる 、花咲かじいさんが芸術家なのだろうとは以 前から私も勘づいていたけれど、それが芸術 の使命であるのならば、写真の力はたやすく 既存の芸術を越えてしまう、ということに今 私は気づいてしまった。それができる写真家 はそんなにたくさんいないけれど、私の写真 が、そんな美しい瞳を持ったひとの目にとま る。そのことが私にとてつもない勇気を与え てくれる。それは無意識の絆だと信じてよい のだろうか。人間は空を飛ぶことはできない けれど、無意識の井戸を降りていって、暗闇 の中で時間を越え距離を越えて対話をするこ とはできる。無意識と向き合う勇気のあるひ と、つまり優しいひとにだけそれが許される 。それは確かなことだと私は思う。村上春樹 の「ねじまき鳥クロニクル」に出てくる「井 戸の壁抜け」、あれは決してフィクションで はないのだ。
 それでも、生きれば生きるほど分からない ことは増えてくる。それに戸惑い時には傷つ きながらも生き続けるしかないのだろうと今 さらながら私は思う。ジャズ喫茶のおやじに 言われたように、「分からない」という態度 がいちばん誠実である場合があるのだと思う 。「分からない」を認める勇気と強さをきち んと身につけたい、と切実に思う。
 すべてを在るがままに見ようとすること、 そんな単純なことが、これほどの苦闘と至福 をもたらしてくれる。写真を続けていてよか ったと思う。私の写真が、そんな勇気を持っ たたくさんのひとに受け入れられ愛されるの だから。


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