トランペットと「ただの写真」
小学校五年生の一学期と中学校の三年間、
私は学校のブラスバンド部に入ってトランペ
ットを吹いていたことがある。今思えば両方
とも上手いバンドではなかったし、私自身、
そこでまったく上手くなれず楽器を吹くのは
それを限りに止めてしまったけれど、あの頃
は毎日が本当に楽しくて、まさに私の人生の
黄金時代だったと思う。
トランペットは派手好きの目立ちたがり屋
が吹く楽器と相場が決まっているので、その
後たくさんのひとから「何であなたがトラン
ペットだったんですか?」と訊かれてきたし
、私自身それにうまく答えられない。しかし
、どういうわけか当時の私はトランペット以
外の楽器に興味が持てなかったのも確かだっ
た。上手くなれなかったので演奏会でもソロ
をとることはできなかったけれど、それでも
私は満足して楽しくトランペットを吹いてい
た毎日だった。
ただ、当時は良い教則本も素朴な疑問に答
えてくれる参考書も見当たらなかったし、初
心者を上手く導いてくれる優秀な指導者にも
めぐり会えなかった。今になって図書館で見
かける参考書は、実にていねいで分かりやす
い上に高度な内容だと思う。あの頃の私がこ
んな本を手にしていたら、もしかして私は今
でも楽器の演奏を続けていたかもしれない。
そう思うと悔しくなる。トランペットを止め
る頃に私は写真を始めたんだから、それでい
いじゃないか、と思ってはみるけれど、音を
出す快感、自分の音を作り上げてゆく陶酔は
写真では味わえない。音楽をずっと続けてい
たら、私はどんな人生を送っていたんだろう
、と考えてみることもある。
初心者にとって、管楽器や弦楽器は、まず
音を出せるようになるのに時間がかかる。指
遣いを覚えて正確な音程を出せるようになる
まで、かなりの練習が必要になる。曲を覚え
て演奏に参加できるようになるために、さら
に練習に励むことになる。しかし、そのすべ
てがこの上ない歓びであることは、楽器を手
にしたことがあるひとなら誰でも知っている
だろう。少年時代にそれを体験したおかげで
、私は写真に限らずその後の生き方にとても
素晴らしい教訓を得たと思うので、そのこと
だけでもあの頃の思い出に感謝したい。
あの、地道な練習を重ねて音を作り上げて
ゆく作業に比べれば、写真は何と安易なもの
だろう、と当時の私は思っていた。そして、
画像がフィルムや印画紙に浮かび上がってく
る快感は、音楽とはまた違ったエロチックな
歓びがある。エリック・ドルフィーの名言の
ように、音楽は一瞬のうちに消え去ってしま
うけれど、写真は私自身の恥や未熟さを含め
てずっと残ってゆく。そのことも私に向いて
いるように思えた。
だから、私がこんなことを言うのは僣越の
極みではあるけれど、写真が撮れないとか、
もったいぶって「芸術としての写真」とかの
たまう連中は、いちど楽器の練習をしてみる
とよいと思う。それに比べれば、写真がいか
に気楽で自由なものか分かるだろう。確か、
桑田佳祐に「ただの歌詞じゃねえかこんなも
ん」という本があったと思うけれど、要する
に、写真は「ただの写真」なのである。私に
はそれが面白くて仕方がない。
話は変わるけれど、数年前、私が漢方薬の
お世話になった時、漢方の先生に教わった呼
吸法が、楽器を吹く時の呼吸法とまったく同
じなのに私は驚いたことがあった。
漢方によれば、呼吸を整えることが心身の
健康の基本なのだそうだけれど、もしかした
ら、楽器を吹いていた頃が私自身いちばん楽
しかったのは、そんな呼吸を続けていたから
だったのかもしれない。その先生は、森山さ
んや荒木さんの写真にも詳しい方で、思わぬ
場所で写真談義に花が咲いて私はとても楽し
い思いをした。その時、先生は「楽器に限ら
ず、好きなことをしている時は自然にそんな
呼吸をしているものですよ」と言っていたけ
れど、確かに、カメラをかまえてシャッター
を押す時、私は深い腹式呼吸をしている。暗
室作業をしている時もそうだ。トランペット
の演奏に劣らず、写真を撮ることも身体によ
いことなのかもしれない。
話をもどせば、トランペットが上手くなれ
なかったのを、私は今まで歯並びのせいにし
てきたけれど、図書館で手にした参考書によ
ると、よほどのことが無い限り、歯並びの悪
さで管楽器をあきらめる必要はないのだそう
だ。歯並びが悪くともプロになるひとはたく
さんいるとのことで、そう言えば、チェット
・ベイカーの歯並びもずいぶん悪かったらし
い。しかし、彼のトランペットの味わいは誰
にも真似できない。
それでも、上手くなれなかったかつてのト
ランペット吹きとしては、クリフォード・ブ
ラウンやフレディ・ハバードのような技巧派
には今でも嫉妬を感じてしまう。一生にいち
どでいいからあんなふうに吹けたら幸せだろ
うな、という憧れの気持ちを抑えることがで
きない。マイルス・デイヴィスやルイ・アー
ムストロングは別格としても、ドン・チェリ
ーとかビックス・バイダーベックとか、ある
いはブッカー・リトルやトム・ハレルのよう
な翳があるトランペッターが私にはより深く
しみる。
ところで、トランペットをカメラに持ち替
えて二十年、と私は吹聴していたことがある
けれど、このふたつの道具(他によい表現が
思いつけない)は私の中でどうつながってい
るのだろうか、と考えてみることがある。
以前も書いたように、カメラが闇を抱えた
箱、心の闇の象徴だとすれば、トランペット
は近藤等則が言うように、肉体と宇宙を直に
結ぶ管かもしれない。曲がりくねった金属の
管は、クラインの壺を思わせる明晰な迷路だ
ろうか。マウスピースから吹き込まれた息は
輝かしい音となってラッパから出てゆくけれ
ど、レンズを通ってフィルムを感光させた光
はそこで消滅してしまう。でも、そこで消滅
した光は、もしかしたらそのまま別世界に突
き抜けてゆくのかもしれない。トランペット
もカメラも何かを通過させる道具、ただ、ト
ランペットは息を送り込む道具、カメラは光
を受け入れる道具、それだけのことで、実は
私にとってふたつとも同じことだったのかも
しれない。あれから二十年以上が過ぎて、私
はようやくそれに思い至る。
ところで、私のトランペットの最高の愛聴
盤は、マイルス・デイヴィスの「イン・ア・
サイレント・ウェイ」の他には、クリフォー
ド・ブラウンの「ウイズ・ストリングス」と
、天才ベーシスト、スコット・ラファロと共
演した「ブッカー・リトル」です。前者は音
に身をまかせているだけでとても幸せで暖か
い気持ちになれるし、後者は鋭い感動とせつ
なさを同時に味わえるのです。
少年の頃のように、トランペットに特別な
憧れを抱き続けながら写真を撮り続けてゆけ
たら私は幸せだと思う。その時、もしかした
ら「ただの写真」は「ただの写真」ではなく
なるのかもしれない。