写真と日常

おかげさまで、と言うべきか、私にとって 四度めの個展を開くことができた。この文章 を書き始めた今は、その三日めが終わったと ころである。今回は初日と中日と最終日しか 私は会場にいないので、私は期間中の多くは 職場でふだんどおり仕事をしていることにな る。それも何だか不思議な気持ちがする。職 場でもそれを気遣ってくれるひとがいるのは もちろんありがたい。ただ、私の写真の群れ が少し私から離れたところで動いているよう な、それが自然に私の日常に溶け込んでいる ような、今まで味わったことが無い気持ちを 抱えて私は仕事を続けている。
 今回展示している写真のほとんどは、私が 休日に盛岡市内で用事を足したりぶらぶらし ながら撮った、本当に日常的な写真の集積で ある。そのほとんどは「東京光画館」で発表 したものなので、この文章を読んで下さるひ となら眼にされた写真だと思うけれど、そこ からさらに選び直した百枚くらいの写真を一 堂に壁に展示してみると、それとはまた別の 力が見えてくるように思う。それはもしかし たら作者の錯覚なのかもしれないけれど、と りあえずはとても嬉しい。
 今までの私の個展は旅の写真が多かったの で、こうして日常の写真でも個展が成立する のが確認できたのが今回の最大の収穫になり そうな気がする。写真はそれでもいいんだよ 、面白いんだよ、というわけである。私にと って、写真と日常が少しずつ近寄ってきたよ うに思えるのが嬉しい。
 今回の会場はお座敷の和風ギャラリーなの で、見に来てくれるひとも今までの私の個展 とは少し異なる感じだ。会場にお茶を飲みに 来るついでに写真を見ていってくれるひとも 多いそうだ。初日には地元紙の取材も受けた けれど、その女性記者は私の写真を見て「面 白いものを撮ってますねえ」と言ってぎゃは はははと大笑いして帰っていった。こういう 写真を見て大笑いするというのは物凄いこと だと我ながら思う。写真家冥利につきる、と はこのことかもしれない。こういう予期せぬ 出会いがあるから展覧会は確かに面白い。
 …というわけで、この文章の続きを書き始 めた今は展覧会が終了した翌日である。地元 紙の紹介記事は予想外の大きさで紙面を飾り 、その文章も写真も第一級のものだった。新 聞記者の力量の凄さを私は初めて思い知った 。その記事を読んで会場に来て下さった方も たくさんおられたようなので私は感謝に堪え ない。なんと、百二十人くらいの方々が来て 下さったとのことである。何度も会場に足を 運んで下さったひともおられた、とのこと。 改めて私は最敬礼をおくるしかない。
 最終日のエンディングテーマとして流した のはいつもどおり、植木等のバラード「どこ までも空」である。「生きているうれしさの 行き着くところ」という最後の歌詞がしみじ みとしみてきて本当に嬉しかった。その後の 撤収作業では一転して「無責任数え歌」を流 すのが後くされが無くて楽しい。
 それにしても、個展を開く度に思い知らさ れることだけれど、見に来て下さる方は実に 鋭く的確に私の写真を見てくれるものだと思 う。私が秘かに思って口に出せずにいること をあっさり見抜いて指摘して下さる。市井に は良き理解者も厳しい批評家も数限り無く存 在する。そんな当たり前のことを改めて肝に 命じるのも個展のメリットだと思う。その意 味で写真は嘘をつかないし、私もまた写真に 関しては絶対に嘘がつけないのだ。
 遠くから何人もの友人が訪ねて来てくれて 、会場でひさびさに歓談することもできて、 写真以外でも個展はまさに私の節目になるの だけれど、それを終えて明日になれば、私は またカメラを持って外を歩くことになる。
 取材でも話したように、長く住んでいると 同じところしか歩かなくなってしまう。歩い ていない場所がまだまだたくさんある。不思 議なことに、盛岡は歩いていて飽きない町だ と思う。きっと私の個人的なこだわりやわだ かまりがうまく作用しているのだろう。そし て、この町も以前よりも変わってゆく速度が 速くなっているように思う。足を踏み入れた ことはまだ無いけれど、何となく気になる町 名に引き寄せられて私は再び撮り始める。そ れを通して意外な真実に出会えることを願っ ている。
 ただ、私が気ままに撮った盛岡の写真が盛 岡でこんなにたくさんのひとに見ていただけ る。そのことが本当に意外で不思議にも思え るのだ。確実に世の中は変わってきているの かもしれない。私はそんなことを思ってみた りもする。


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