孤独と健康
最相葉月著「星新一 一〇〇一話をつくっ
たひと」という本を斜め見した。この本は十
年前に亡くなった小説家、星新一さんの詳細
な伝記なのだけれど、それがあまりにも痛ま
しく思えたので、私はきちんと読むことがで
きなかった。
星さんについては、この本が出る前に私は
ささやかな文章を書いたことがある。それが
、この「無限通信」に収められている「壁の
穴」なのだけれど、最相葉月の本を手にして
、私がひとりの読者として星さんに抱いてい
た印象は決して間違ってはいなかったのだな
、という感想を持った。しかし、この本で語
られている星さんの実像は、私の印象をはる
かに越えて凄惨であるのも確かだと思う。
私の「壁の穴」で書いたように、星さんは
私が生まれて初めて熱中して読んだ作家だし
、幼い私に人生の方向を示唆してくれた恩人
のひとりでもある。その頃の私が科学者にな
ることに憧れて、いつのまにか、大学は違う
にせよ星さんと同じ農学部農芸化学科に進学
してしまったのは、星さんの秘かな導きだと
思うからだ。結局そこからドロップアウトし
てしまったのも、星さんと同じだと言ってよ
いのかもしれない。
だから、私はこの本で明かされた星さんの
実像に対して言うべきことは何も無い。
たとえば、星さんは父親が設立した製薬会
社の御曹司として東京大学に学んでいるけれ
ど、父親の後を継いで赤字だらけの会社を任
されて、そこで筆舌に尽くしがたい屈辱を味
わっている。そのことは、この本を読まなく
とも星さんの熱心な読者なら察しがついてい
たと思う。その時に星さんが身につけざるを
得なかった人間不信や乾いたユーモアが、そ
の後に書き始めた小説を支える屋台骨となっ
ているのは明らかだし、詳細にそれを語るこ
とが無かった星さんにしても、そのエッセイ
や父親の伝記「人民は弱し 官吏は強し」の
中に激しい恨みを読み取ることはできる。
そして、小説家となった星さんは質的にも
量的にも誰にも真似できない仕事を残して、
それが今に至るまで世界中の老若男女によっ
て読まれ続けている。私のように、星さんの
仕事によって人生を導かれたひとも他にたく
さんいると思う。これはまさに作家冥利に尽
きることであって、それをなし遂げて死んで
いった星さんの人生を批評することなど私に
はできない。もっと悠々と生きてほしかった
とか、もっと他人を信じていてほしかったと
か、もっと長生きしてほしかったとか、そん
なことを言う資格は私には無い。星さんの優
しさにただ感謝するだけである。
それにしても、小説家、あるいは作家とい
う人種はかくも不真面目で不健康なものなの
だろうか。これは星さんを責めて言っている
のではない。星さんが心身を削ってあの名作
を書き続けたのは確かなのだけれど、星さん
を取り巻く作家連中の悪徳が、星さんの刻苦
以上に星さんをむしばんだように私には思え
るからだ。
星さんはSF界の長老というような言われ
方をされてきたけれど、星さんは「寓話作家
」というふうに自身を考えておられたようだ
し、私もそれが星さんにいちばん似つかわし
いように思える。そもそも、作家連中が自分
たちのことを純文学だのSFだのと区別して
いることが私には馬鹿らしく思えてならない
。その中で、純文学と称する連中が幅をきか
せていることに至っては噴飯ものとしか言い
ようがないだろう。まさにコップの中の嵐と
言うか、利口ぶっている作家連中の馬鹿さ加
減がこんなところによく表れている。
たとえば、今や「純文学」の大御所とされ
る某作家は、深いつきあいもなかった星さん
のことを「あれはきちがいだ」と公言してい
たそうだけれど、人間を深く観察して描写す
るのが仕事であるはずの「純文学」作家が、
他の作家についてこんな発言をするというこ
とが私には信じられない。人間は、とりわけ
ひとびとに広く受け入れられている作家は、
一筋縄ではゆかない、矛盾した深みをたたえ
ているはずである。私のような写真家にさえ
それが分かる。それを理解していない作家が
君臨している日本の「純文学」がつまらない
理由がこんなところで分かってしまった。
そう言えば、十年くらい前に出た篠山紀信
の写真集「定本 作家の仕事場」には星さん
も登場していたけれど、そこで撮影されてい
た数多い作家たちの中で、まともなまなざし
を持っている作家は星さんを含めて数人しか
いなかったように私は思った。しかも、不思
議なことに、その数少ないまともな作家のほ
とんどは「純文学」作家ではなかったのであ
る。
作家には性格の悪い奴が多いというけれど
、自分の性格の悪ささえ自覚できない奴に果
して良い文章が書けるのだろうか。あるいは
、それを自覚できないからこそ作家連中は群
れたがるのだろうか、とも私は思う。
なぜ、作家連中が集う酒場なんてものが存
在できるのだろうか。そんなところに関わり
を持たないまともな作家もいるけれど、孤独
な仕事をする作家たちはさみしがり屋なのだ
、という甘えがなぜ通用するのだろうか。自
分の孤独も管理できない奴に良い文章が書け
るはずが無い、ということがプロの作家に分
からないのだろうか。そもそも、たいして仲
の良くない同業者と一緒に酒を呑みたがる気
持ちが私には全く理解できない。そんなつま
らない場所で傷ついて病んでしまったのが、
星さんについて私が唯一残念に思うところで
ある。最相葉月の本を斜め見して私はそんな
感想を持った。
酒を呑みたければ、もっと気持ちよく呑め
る別の場所で友人を作った方が楽しいし、そ
の方が仕事のためにもなると思う。作家に限
らず、自由業者はサラリーマン風の不自由な
しきたりが嫌だからこそドロップアウトして
苦労してきたはずなのに、結局同じような世
界を作ってしまうのは馬鹿げている。
でも、星さんは読者を信じていたのだと私
は思う。文学賞だの業界内での格付けだの、
そんなつまらないことに拘泥する作家たちの
中にあって、星さんはそのことに傷つきなが
らも、自分の小説を読み続けてくれる読者を
いちばん信頼していたと思う。それが、孤独
を大切にするということなのかもしれない。
そうでなければ星さんはあのように超人的な
仕事を残すことはできなかったはずだし、読
者を信頼していない作家の文章が、このよう
に広く永く読まれることもないはずだ。
それにしても伝記は難しいものだと思う。
最相葉月の本をきちんと読んでいない私にこ
んなことを言う資格が無いのはもちろんなの
だが、もしかしたら、星さんの実像はこの本
と少し違うところにもあるのかもしれない。
それこそ、言葉では捉えきれない矛盾した深
みを星さんは備えていた、ということになる
のだろうか。痛ましい印象ばかり抱くのも星
さんに失礼なことかもしれない。
ただ、私としては「孤独は健康の源」とい
った座右銘でも掲げて生きてゆくことにした
い。べつにひとりきりになって山奥にひきこ
もりたいとは思わないし、ひと混みの中で気
持ちを閉ざして生きてゆこうとも思わない。
そうではなくて、澄んだまなざしを目指して
写真を撮り続けてゆけば、健全な孤独が自然
に身についてゆくだろうと思うのだ。それが
私に暖かい幸せをもたらしてくれそうな気が
する。