格差から格式へ

新聞その他をななめ読みしていると、「格 差」という言葉をよく目にするようになった 。今の世の中は、お金の有る無しで全てが決 まるということになっているそうで、これを 「格差社会」、その「負け組」を「下流」と 呼ぶらしいけれど、私の知る限り、この言葉 を口にするのは政治家か報道関係者、あるい は軽薄なタレント先生方しかいないみたいだ 。私の周りのひとは「お金や仕事が無い」と か「給料が安くて食えない」あるいは「仕事 がきつい」と言うばかりで、誰もこんな言葉 は遣わない。「格差」なんて本当に嫌な言葉 だと思うし不正確な言葉だと私は思う。本当 のお金持ちは、もちろんこんな下品な言葉は 遣わないだろう。底の浅い成り金と下品な貧 民が横行する今の世の中にふさわしい言葉に 思える。
 ビートたけしが「金が無いのを格差と言う 下品さに誰も気がつかない」というような発 言をしていたけれど、そもそも「格差」って 何なのだろう。気になって手許の辞書を引い てみると、@(経済学用語)価格の差 A資格・等級の 差と解説がある。いずれにせよ、あまり差別 的な意味合いは感じられない。ここから、な ぜ「格差社会」とかいう汚い言葉が出てくる のだろうか。
 しろうとの推測ではあるけれど、同じ仕事 をする正社員と派遣社員の給料の差を「格差 」と称していたのがこの言葉の始まりなのか もしれない。その、給料の差にとどまらない 理不尽な待遇の違いにまつわる恨みつらみが 、この汚い言葉を呼び寄せてしまったような 気がする。しかし、ここで遣われている「格 」という言葉には、もっと高貴な意味合いが あったと思う。「格」をさらに辞書で引いて みると、A くらい。格式「格がちがう」  と出ている。これが「格差」の「格」の本 来の意味だったはずだ。そこで、しつこく「 格式」を引いてみると、  身分に応じた交際や生活の作法。  とある。この言葉を私は求めていたように 思う。要するに「格式」は「身分相応」とい うことらしい。これを自覚して大切に守って ゆくことは、金持ちであろうが貧乏人であろ うが等しく優雅で高貴な生き方のはずだ。当 然のことながら、貧乏人の生活にも立派な格 式がある。それは「格差社会」なんて汚らし い言葉とはあまりにもかけ離れている。
 ここで卑しいのは、格式を知らない成り金 やそれに憧れる下品な貧民であって、彼らこ そが下流社会の住人であったはずだ。それに 対する上流社会、あるいは普通の常識のある 中流社会では、金持ちと貧乏人は意外に仲良 く対等に生きていることを私は知っている。 下品な貧民どもが成り金連中に憧れる下流社 会とはまさに格が違うのである。
 そんな格式を知らずに、ただお金に振り回 されるばかりの下流社会は本当に哀れだと私 は思うけれど、そんな格式を知るには、金持 ちであろうが貧乏人であろうが、自分の無力 を嫌というほど噛みしめる必要があるのだろ う。お金をいくら積んでもどうにもならない 自分の無力に直面するのは、お金が無いこと とは比べものにならない屈辱だと私は思う。 それに耐えられない連中が、私の言う「下流 社会」に流れてゆくように思う。そこは自業 自得とは言え、脱出不能な無限地獄に見える 。しかし、それに気づかずに、お金があれば 何でもできる、と信じている方が人生は楽な のかもしれない。
 それにしても「格差社会」というのは汚い だけでなくて、極めて不正確な言葉ではない だろうか。これは、今の世の中に貧乏人が増 えていることを正確に表してはいるけれど、 まるで成り金もそれと同じくらい増えている ような印象を与える。しかし、外国に比べて みても、あるいはひと昔前の日本に比べてみ ても、成り金の数も規模も決して拡大しては いないと思う。実は、成り金は成り金でより 貧弱になっているのではないか。お金だけで 勝ち負けが決まる、という考え方がはびこる こと自体、世の中が衰弱して経済的にも貧し くなっている証拠だろう。「格差社会」はそ れをうまくごまかしてしまう言葉のように思 えてならない。
 そもそも、いつの時代も、日本の成り金や 金持ちなんて外国のそれとは比べ物にならな いくらい貧弱なものだっただろう。ノーべル やカーネギーやロックフェラーのような雄大 な大金持ちが日本にいたことはなかったはず だ。彼らの事業や財産の規模は日本人には桁 外れなものだったし、日本の成り金や金持ち は、彼らのように世界的に著名な賞を遺すこ とも無ければ社会事業に打ち込むことも無く 、芸術家や学者を無償で支援することもあま り無い。
 今の日本人が成り金になってすることと言 えば、せいぜい豪邸と別荘を建てて自家用の 小型ジェット機を所有するくらいが関の山で ある。要するに、日本の成り金なんて大した ことないのである。「こち亀」に出てくる中 川一族のような優雅な大金持ちが、日本に本 当にいるのかどうか私は知らない。あの中川 くんのように、大金持ちでありながら誇りを 持って警察官を続けているようなひとが本当 にいるのかどうかも私は知らない。
 ただ、日本は「貧の文化」、というような ことを言ったひとがいるらしいけれど、それ もまた不正確な考え方のような気がする。こ の国には、悲惨な病を抱えたうえに、その日 の衣食住にもこと欠くようなひとびとが公然 と群れていることも無いけれど、穏やかで誇 り高いたくさんのひとびとが、節度を持って 豊かに暮らしているわけでもない。要するに 、日本はもともとその中間に位置する「中流 国家」なのだと私は思う。その、中流国家の 「格式」をもう少し大切にしないと、我々は 成り金と貧民が幅をきかす下流国家に落ちぶ れてしまうように思う。中流以外の身分不相 応の世の中は、やはり生きにくいのだ。
 そんな、筋金入りの「中流国家」日本の利 点は今のような「格差社会」になっても簡単 に消えるわけではなくて、それをきちんと活 用しなければ損だと私は思う。
 日本というのは本当に不思議な国で、お金 が無ければ何事も始まらない、と思っている ひとが世間にはたくさんいるみたいだけれど 、大金をかけなくとも、これほどたくさんの ことが楽しめて身につく国は他に無いのでは ないだろうか。
 たとえば、文庫と新書だけで、大学を普通 に卒業する以上の知識を得ることができる。 高価な本は図書館に行けば無料で読むことが できる。NHKの肩を持つつもりは無いけれ ど、毎月数百円のテキスト代を払うだけで、 世界中の言葉を学ぶことができる。レンタル ショップに行けば世界中の音楽や映画のソフ トを安く借りることができる。地方の小都市 に住んでいても世界各地の本格的な料理を安 く食べることができる。ピカソの本物を安く 鑑賞することも不可能ではない。あるいは、 日本から一歩も出なくとも外国人と友だちづ きあいをすることもできる。つまり、メディ アだけでは学べない見聞に接することも不可 能ではない。教育の荒廃とか言うひともいる けれど、我々は皆、そんな体験を可能にする だけの教育は受けてきている。これが日本と いう国の底力なのだろう。私の言う「下流社 会」の住人たちは、お金に目がくらんでいる せいなのかそれに気づいていない。
 話は飛ぶけれど、私が写真を続けていられ るのも「中流国家」日本の底力のおかげなの だろう。どんな生活になってもカメラを所有 することが可能で、たとえ暗室を持つことが 不可能になっても、カラーフィルムを購入す る程度の小遣いが得られて、それを現像して くれる写真店が日本中に存在している。逆に 考えれば、それだけの物さえ有れば誰でも続 けられる、というのが写真の強みなのだろう 。要するに、今の日本ではドロップアウトし ても愉快に生きることが可能なのである。
 今は、うわべを繕って生きてゆくのが極め て困難な時代だと私は思う。町を歩けば「勝 ち組」も「負け組」も皆等しくノイローゼ一 歩手前の顔をしている。そこから落ちこぼれ てしまうことはもはや恥ではない。余談なが ら、私はそんな連中を撮る気にはとてもなれ ない。
 ならば、今はひとまず貧しさに甘んじて、 自分の「格式」をひっそりと守って生きてゆ く方がよいように私には思えてくる。かしこ い貧乏人は、前の時代の負債を抱えこむこと が無いのでそんな生き方が可能なのである。 「豊かさの中の貧しさ」はデメリットばかり ではない、ということを今一度確認しておき たいと思う。これが本当の「反体制」の生き 方ではないか、という気もする。


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