前回の個展を開いた時、その会場で私は「
プロですか?」と訊かれたことが何度かあっ
た。訊いたひとは女子高生だったり年配の男
性だったりいろんなひとがいた。写真で食べ
ているんですか、と訊かれれば、食べてませ
ん、と私は即答できるけれど、この質問に答
えるのはなかなか難しい。プロとは何だろう
か、それに対応するアマチュアとは何だろう
か、私にはいまだによく分からないからだ。
この質問は「写真は趣味ですか?」というの
と同じような難問だと思う。しかし、訊かれ
た以上それに答えないわけにはゆかなくなる
。あれこれ考えながら私はお茶を濁すしかな
い。訊いたひとはそれで納得してくれただろ
うか。
写真は食えないメディアである、というこ
とは私は幼い頃から知っていたし、それが私
が写真の学校に行かなかった理由のひとつだ
った。しかし、世間には食えている写真家な
りカメラマンなる人種がたくさんいる、とい
う幻想がまかり通っているようで、そんなひ
とは数えるほどしかいないはずだが、だから
と言って私のような写真家が彼らに比べて不
幸だとも思えない。
これについて私は以前も書いたことがある
けれど、そんな「プロ写真家」という幻想を
ばら撒いたのはいったい誰なのだろう。私に
は迷惑このうえない。
それは、写真を撮ることが特殊技能であっ
た時代、写真館主が町の名士として扱われて
いた時代のなごりなのだろうか。それとも、
六十年代から七十年代に現れた広告写真家が
、彼らを支える下働きの若者を多数集めるた
めに流布させた世迷い言の一種なのだろうか
。これも私にはよく分からない。あるいは、
これは写真というメディアに対するひとびと
の畏敬の念の現れなのだろうか。写真がどれ
だけ身近になっても、この幻想は消滅するも
のではないらしい。このことが、写真家にと
って良いことなのか悪いことなのかも私には
判断できない。
ただ、その実態が見かけ倒しで貧相極まり
ないことくらいは私も最初から気づいていた
。その幻想は、八十年代なかばにはすでにほ
ころび始めていたわけだが、そのへんの事情
は先日亡くなった渡辺和博のベストセラー「
金魂巻」を読み返してみるとよく分かる。マ
ル金(金持ち)にせよマルビ(貧乏)にせよ
、職業カメラマンの生態は哀れで滑稽で、と
てもつきあいきれるものではなかった。渡辺
和博はカメラマン志望だったというから、他
の章に比べても、とりわけこの記述は辛辣に
なっているのだろう。当時の私はこれを読み
ながら、この道を歩まなくて本当によかった
と胸をなでおろしていたのだった。
また、その頃から、美術家をめざす写真家
という新しい傾向がもてはやされるようにな
ったのだが、これも私にはよく理解できなか
った。美術家がその手段として写真を使うの
ならよく分かるけれど、写真家が美術家と同
じ土俵に立ってみてもかなうわけがないじゃ
ないか、と私は思っていた。美術家の技術に
比べれば写真家のそれはあまりにも軽薄に思
える。それをわきまえずに浮かれていても仕
方がない。田原桂一氏のように、写真家とし
てデビューしながらも現在は美術家として仕
事をしておられる方もいるけれど、その仕事
の重みは、ただ浮かれている他の写真家とは
比べものにならない。
様々な苦労と高い技術を駆使して表現を続
ける美術家にしてみれば、押せば写るという
写真の魔法は何かしら憧れをかき立てられる
ものであるらしい。しかし、写真家にとって
それはあたりまえのことである。それをわき
まえずに写真家が美術家と接するのは失礼だ
と思う。
結局、写真家の取り柄は素直さと地道なし
ぶとさだけなのだと思う。それをつらぬくの
が写真の才能なのだが、そんな、一見誰にで
もできるような単純なことを続けられるひと
がそれほどたくさんいるわけでもないらしい
。これも本当に不思議だ。これができずに写
真を止めてしまうひとがたくさんいるからだ
。そんな、単純にして困難(?)な「あたり
まえ」をしぶとく繰り返し続ける写真家とは
いったい何者なのだろうか。
写真家とは何者か、という文句は、実は大
竹昭子の「眼の狩人」の文庫版の帯に記され
ていた言葉なのだが、この本が出る以前、写
真を始めた頃からずっと私の中でこの文句が
響き続けていたように思う。しかも、その写
真家という人種のひとりが、なぜこの私でな
ければならないのか、私にはいまだによく分
からない。私の場合「写真家とは何者か」と
いう問いが、最初から「私とは何者か」とい
う問いと重なってしまっていたのである。
写真を撮り続ける以外に私がより良く生き
る道は無い、ということは骨身にしみて理解
しているけれど、それでもこれは私の人生最
大の謎であり続ける。たとえば、写真に出会
う以前に私が写真家になりたいと思ったこと
など一度も無かった。私はもっと世のためひ
とのためになる生き方をしたい、と真剣に考
えて努力してきたはずなのに、結局こうなっ
てしまったのである。それを後悔しているわ
けではないけれど、私が写真を撮り続けてい
ることが本当に不思議で仕方がないのは確か
である。せめてその含羞だけは持ち続けてい
たいと思う。もしかしたら、それが写真家で
あり続けるための条件なのかもしれない。こ
の謎の前では、プロかアマチュアかという問
いは意味を成さなくなる。
誇らしげにプロを名乗るひとにも、含羞も
無くアマチュアを名乗るひとにも私は親しみ
を覚えることができない。そのせいで、私は
シャッターを押すたびに孤独になってゆくよ
うな気がすることがある。
結局、私にとって理想的な写真家の在り方
は、戦前の日本の、安井仲治や飯田幸次郎と
いった「光画」の時代の写真家だと思う。そ
の頃にはプロもアマチュアも無くて、ただ写
真家という自覚だけがあったように私には思
える。写真家という生き方は天命ではあって
も職業ではなかったような気がする。それは
写真にとって幸せなことだっただろう。
安井仲治や飯田幸次郎が、今で言う職業的
な「写真作家」であったとしたら、あの魅力
的な名作たちは生まれていただろうか。彼ら
には写真の他に定職があった。それは、さほ
ど裕福ではなくとも、今のサラリーマンほど
束縛のきついものではなかったらしい。
そんな、私の敬愛する戦前の写真家たちは
、写真と職業の関係をどんなふうに考えてい
たのだろう。私は不勉強にして、それについ
て彼らが告白している文章を読んだことが無
いけれど、そのへんのことについて、彼らの
同時代を生きた物書き、辻潤の文章を引用し
てみる。これは、官憲に虐殺されたかつての
愛人、伊藤野枝をいとおしんで書かれた「ふ
もれすく」の一節になる。
僕は子供の時から文学は好きだった。しか
し文学者として立つ才能を所有しているとい
うような自信は薬にしたくも持ち合わせては
いなかった。のみならず文学は職業とすべき
ものではないと考えていたから、僕はそれを
単に自分の道楽の如く見なしていたのである
。しかしまた道楽によって生活することがも
しできたとすれば、これ程結構なことはない
と考えてもいた。
実は、この一節の「文学」を「写真」に置
き換えることが許されるのならば、これは私
の不逞な本音になってしまうのである。辻潤
は伊藤野枝と別れた後、ろくに働かずに尺八
を吹きながら放浪する貧乏な物書きの一生を
つらぬいたけれど、彼が残した文章は今でも
たまらない魅力がある。そして、その生き方
は異なるけれど、もしかしたら、安井仲治や
飯田幸次郎もこれに似た考えを持っていたの
ではないか、と私は想像してみることがある
。彼らが残した写真に宿る静かな自信と素直
さは、そんな孤独な楽しみを私に教えてくれ
るからだ。これを普遍的な「個性」と言うの
だろうが、それは「プロ写真家」にはなかな
か許されない特権なのだろう。
べつに私は辻潤のような一生を送るつもり
は無いけれど、安井仲治や飯田幸次郎のよう
な、本物の「個性」を持つ幸せを味わうこと
ができるのならば、私は写真家という謎の人
生を心から受け入れて感謝できるようになる
と思う。