今、私が住んでいる岩手県盛岡市の実家の 近くには白鳥の飛来地があるので、厳寒の季 節になると、深夜になってもクウクウという 白鳥の声がかすかに聞こえてくる。
 以前、「白鳥の声を聞きながら眠るのは素 敵です」なんて手紙を私は書いたことがあっ たけれど、今はもう少しリアルにそれを聞い ているような気がする。白鳥の声がうるさい わけではないけれど、深夜に目覚めてしまっ た時にそれを聞くと、私はあまり愉快でない 想い出にまどろんだ後、再び眠りに引きこま れてゆくことになるからだ。
 都会の真ん中で、地響きのような街のうな りを聞かされながら眠る生活はもうごめんだ けれど、白鳥の声を聞きながらうとうとする のも実はそれほど楽しくはない。夜の雨音や 降る雪の沈黙は私はとても好きだし、梅雨時 の蛙の声や夏から秋にかけてのこおろぎの声 も素敵だ。しかし、白鳥の声はどこかしら悲 しげに聞こえる。
 「野性の生き物の声は彼らの生きる歓びを 表現しているのだ」と手放しで称賛するむき もあるけれど、本当にそうだろうか。生きる 歓びにはそれと同じだけの悲しみや苦しみが 含まれている。人間も野性の生き物もそれは 同じだろうという気がする。  たとえば、蝶や蟻のような昆虫は、生長の 過程でサナギという状態を経験する。あれは ずいぶんと危機的で辛い過程なのではないか と私は想像する。
 サナギになる直前の幼虫を「終齢幼虫」と か「老齢幼虫」と学者たちは名付けていたと 思うけれど、特に「老齢幼虫」というのは絶 妙にして奇怪なネーミングだと私は思う。全 身に栄養を蓄えて肥大しているものの、その 状態では行き着くところに行ってしまって、 もはやサナギに変態する以外に無い。彼らは 次第に動作が鈍くなってきて、種類によって は繭の中にひきこもって、皮を脱いで意識を 失ってサナギになる。それは昆虫たちにとっ て決して愉快な経験ではないと思う。サナギ の中では今までの肉体がどろどろに溶けて再 組織化が進み、成虫への生まれ変わりが進ん でゆく。それは、いずれ生殖の能力を獲得し て、より広い世界を生きるために必要な試練 なのだろう。
 彼らが再び意識を取り戻し、サナギから成 虫へと羽化してゆく情景は、テレビ番組では 甘美な音楽と共に放映されることが多いけれ ど、あれはもっと沈黙と力を内に秘めた音楽 がふさわしいのではないか、と私は考えてみ る。私だったら、グレン・グールドが死の直 前に録った「ゴールドベルク変奏曲」の終結 近くに現れる音楽をつけてみたい。あの音楽 はピアノの鍵盤を順に全て鳴らそうとしてい るけれど、それは、未知の世界に飛翔するた めに、自分の能力をすみずみまで点検してい るように私には聞こえるからだ。その後には 、目に見えない美しい飛翔があることを私に 思わせてくれる。
 グールドはあの録音を残して五十代で亡く なってしまったけれど、我々はこの音楽と共 にこれからを生きてゆかなければならない。 そして、白鳥だけでなくて、我々人間も言葉 を越えた声を発することがあるし、昆虫ほど ではないにせよ、人間の精神もその生涯で何 度かサナギのような状態を経験する。だから 、深夜、白鳥の声を聞きながら古い想い出に まどろんでしまうのは、私の無意識が今また サナギのような状態にあるせいなのだろう。 これは病気というよりも、成長の代償と言っ た方が正確なような気がする。
 ところで、「成長のための代償」という考 え方を私に教えてくれたのは、村上春樹の長 編小説「ノルウェイの森」だった。肉体や精 神を共有するくらい、あまりにも近しい関係 にあったヒロインとその幼なじみが、結局性 的にも現実的にも結ばれることなく心を病ん で自ら死んでゆく展開に、私は生物学的な法 則のようなものを読みとっていた。あまりに も近しい者どうしがそのまま結ばれるのは不 可能である。それを可能にするためには、サ ナギの殻を抜け出して羽化する勇気が必要に なる。それができる人間だけがあの小説の中 で生き残った。「ノルウェイの森」には、主 人公以外にまともな人間がひとりも出てこな いことに私は驚いたけれど、そんな小説が、 バブルの最終期のあの時代にベストセラーに なったのはもっと不思議に思えた。
 もし、私の無意識が時代につながっている と言っても許されるのならば、今は「サナギ の時代」なのかもしれない。「ノルウェイの 森」が老齢幼虫のバブル時代に現れて圧倒的 に受け入れられたのも、皆がサナギへの脱皮 を予感していたからなのかもしれない。
 どうやら我々はうまくサナギになることに は成功したみたいだけれど、こんな混沌とし たサナギ時代がいつまで続くのかは誰にも判 らない。そして、サナギが脱皮して成虫にな るのは苦痛を伴う生涯最大の難事業であって 、誰もがそれに成功するわけではない、とい うことも我々の身の回りにいる昆虫たちが教 えてくれる。それを乗り越えるための教訓は 「ノルウェイの森」にも書いてあった。
 それにしても、と私は思う。深夜目覚めて しまった時に今までの生き方を振り返ってみ ると、私は自分の能力だけを深く点検して、 頭の中で布石を敷いた後は衝動的に誠実に生 きてきただけなのだけれど、その後の世の中 の動きは一体何なのだろうか。
 私が勤めを辞めて大学院に進学して、何と かそこを卒業して数年すると社会人が大学院 に進学することはそれほど珍しいことではな くなったし、私がうつ病に倒れて辛い思いを していた時はずいぶんと孤独だったけれど、 こうして回復してみると世間にはうつ病患者 があふれている。そんなことは今までにもた くさんあった。こんな生き方も時代に先駆し ている、と言えるのだろうか。
 私は世間の動向を読むことなどできないし 、作為的な生き方をしている連中は大嫌いで ある。どんな時代に生きようが、私は今のよ うな生き方しかできないと思う。傲慢きわま りないけれど、時代が勝手に私の後を追って くるとしか思えない。だからこそ、「今はこ んな時代だからそれで良いのだ」というよう な考え方で私を受け入れてほしくない。無神 経な年寄りやその予備軍も私は嫌いだけど、 今、世間にあふれている、かよわい風見鶏の ような若い連中と一緒にされては迷惑である 。彼らは、サナギになることもできずに幼虫 のまま老いてゆく哀れな人間なのかもしれな い。
 話がずれてしまったけれど、もちろん、格 好悪い生き方で時代に先駆してみても誰も褒 めてはくれないし、経験を積んだからといっ てスマートに生きられるわけでもない。不安 と共に、ある覚悟が生まれるだけである。こ んな時、マイルス・デイヴィスなら「ソー・ ホワット(それがどうした)」と言うだろう 。もしかしたら、一見スマートに見えるマイ ルスだって不器用な男だったのかもしれない 。時代を読んだ上であんなに激しい変遷を続 けたのではなかったのかもしれない。
 正月の新聞を読んでいたら、塩野七生さん の、「世界が変わるときには、何もしないで 様子を見ることも必要です」という発言が紹 介されていたけれど、それは正に今の私では ないか。そんな今の私の生き方が一体何の先 駆になっているのか、それは誰にも分からな い。もちろん私自身にも分からない。こうし て冬の間は深夜に白鳥の声を聞いて、あれこ れ想いを深める他に無い。


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