美しい国から死の国へ

前回は阿部謹也氏の著書「ハーメルンの笛 吹き男」について少し書いたけれど、私は今 でもこの本をもとに言いたいことがたくさん あるので、もう少し書き足してみることにす る。

歴史の研究をしたことが無いので私にはよ く分からないけれど、学校で教わった歴史と いうものは、現在が特別な時代であることを 教えこむための物語であったような気がして いる。その意味で、古事記の神話を史実とし て教えていた戦前と、我々が受けた歴史教育 は実は大差無かったのかもしれない。
 歴史は常に進歩して拡大する。その結果、 人間は時代が進むほど幸せになる。だから現 在に生まれたお前たちは幸せなのだ。この幸 せをさらに拡大するためにお前たちは奉公し なければならない。それがこの物語の要旨な のだろうか。本当の歴史は時に何百年も停滞 し、また断絶し退化し縮小することがある。 それは注意深く歴史を調べてみれば気づくこ となのだけれど、学校ではそれを極力教えな いようにしていたと私は思う。
 それを明かすと歴史は美しい物語ではなく なってしまって、人類の愚かさをさらす屈辱 でしかなくなる。いまだに我々は虚偽の「神 話」を必要としているのだろう。「ハーメル ンの笛吹き男」のように、それを丹念に読み 解いて人生について考えることこそ大人の仕 事であって、せめてそのヒントを与えるのが 学校の歴史の時間ではないかと私なんかは思 うけれど、いつになったら我々はそこまで成 熟できるのだろうか。
 「ハーメルンの笛吹き男」は、中世ドイツ の事件を日本の現代史として扱っているので はないか、と今にして私は思う。だからこそ 、遠い時代の遠い国のひとびとの悲しみがこ んなに切実に迫ってくるのだろう。結局、全 ての歴史は揺れ動く現代史なのかもしれない 。それは決して死んだ「物語」ではないはず だ。そう考えると、歴史というものの恐ろし さ、あるいは現在というものの恐ろしさが身 にしみて感じられるようになる。
 余談ながら、二十年以上前、「侵略」か「 進出」かでもめた「教科書問題」があった時 、確か南伸坊が「日本の歴史教育は現代史を 極力教えないようにプログラムされている、 ということをどうして誰も問題にしないのだ ろう」というようなことを言っていたけれど 、その理由もここに通じていると思う。現代 史を死んだ「物語」として教えることは不可 能なのだ。
 とにかく、いまだに「進歩」と「拡大」が 世の中の錦の御旗なので、現在は総理大臣が 言うような「美しい国」がまかり通る特別な 時代である、ということにしておかないと歴 史が破綻してしまうのだろう。「美しい国」 など最初から破綻しているのに、そして皆そ れに気づいているのに、あの総理大臣は今さ らそれをでっちあげようとしている。その美 名の陰でどれだけのひとが傷つき死んでゆく のか、あの男には分からないのだろう。今の ような時代に、空疎で美しいスローガンがい かに危険なものか、我々は数十年前に経験し ているはずなのに、我々は本当に何も見えな くなってしまっているような気がする。まさ に「バカの壁」である。
 話がずれてしまったけれど、そんなふうに 「進歩」して「発展」する歴史を解体してし まえば、子どもの自殺や殺人は防げるように 私には思えてならない。
 たとえば、死の淵まで追い詰められた子ど もたちに「歴史を解体しろ」というのは無茶 な注文なのかもしれないけれど、今、自分が 直面している苦しい現実などかりそめのもの に過ぎないのだ、世界はずっと広いのだ、逃 げ場はいくらでもあるのだ、という確信をひ とりひとりの子どもが持つことは難しくない と私は思う。それが「歴史の解体」でもある はずだ。
 私も小学校六年生の時にずいぶん陰湿にい じめられて、その傷痕が今でも身体に残って いる。しかし、私が自殺したり相手を殺傷し たりしないで済んだのは、その確信があった からだと今にして思う。私が死んだり殺した りするという発想を持ったの大人になってか らのことで、いずれにせよそんな「悪魔」か ら私を危ういところで守ってくれたのは本で あり音楽であり自然の美しさだったと思う。 あるいはもっと幼い頃に肉親やまわりのひと びとから与えられた暖かい想い出だったと思 う。それがあれば、ひとは極限の孤独を生き のびることができると思う。逆に、そんな絆 が存在しない世界に子どもが生きる理由は何 も無くなる。
 「ハーメルンの笛吹き男」では、百三十人 もの子どもたちが同時に失踪した真の理由と して様々な仮説が検討されている。その後で 当時の子どもたちが置かれた状況が紹介され ているのだけれど、厳しい社会で生きること の重みが子どもたちを狂わせていった事例が そこで考察されている。
 生きることに耐えかねて互いに殺し合う子 どもたちが続出している現在を、それに重ね て考えてよいのかどうか分からないけれど、 子どもはこの世界にとって異邦人である、と いうことはいつの時代でも変わることのない 鉄則だと私は思う。だから、どんな家庭に生 まれようが、どんな教育を受けようが、子ど もは心底この世界が嫌になった時、その最後 の絆が断たれてしまった時、容易にこの世界 と縁を切って死んでしまう。その意味で子ど もは非情なものだと思う。そして、大人が子 どもの死を何よりも悲しむのは、それによっ て自分たちの人生が真っ向からおとしめられ 否定されるからではないのだろうか。
 確か小松左京の短編に、世界中の子どもた ちが「この世界がぼくたちは大嫌いだった」 という書き置きを残して失踪してしまう話が あったけれど、あれはハーメルンの伝説の現 代版なのかもしれない。子どもは他界からこ の世界にやってきて、容易にまた他界に去っ てゆくことがある異邦人である。そんな子ど もたちを大切に迎えて共に生きてゆく知恵は 、日本の民俗の中にもきちんと受け継がれて きたと思うけれど、我々は急速にそれを忘れ てしまったらしい。
 それにしても、死んでゆく子どもにとって 死とはいったい何なのだろうか。ただ単に、 苦しい現実から逃れる手段としてしか子ども はそれを捉えていないのだろうか。実は、彼 らは大人たちよりもずっとリアルに死の真相 を理解しているのではないだろうか。だから こそ、彼らは(大人たちから見れば)容易に 自殺してしまうのではないか。
 もしかしたら、死の重みというものは、ひ とによって極端に違うのかもしれない。世間 の常識とは逆に、長く生きた大人よりも子ど もの方がずっと深く死を理解して死んでゆく のかもしれない。
 唐突ではあるけれど、子どもにとって死後 の世界は存在するのだろう、と私は思ってい る。それを確信したのはもう二十年くらい前 に読んだ新聞記事だった。それは、小児ガン のために余命いくばくも無い少女が最後の希 望をかなえた話で、ガン治療のために髪を失 った幼い少女が、プールで憧れのイルカと一 緒に泳いでいる写真がそこに載せられていた 。彼女の笑顔が私は今も忘れられない。
 それを見た時、私は彼女にとって死後の世 界が存在することを確信したのである。それ は啓示と言ってもよかった。この世界を充分 に生きることができなかった子どもたちが向 かう世界が確かにある。まわりの大人たちも それを知っているからこそ、彼女の最後の希 望をかなえるために尽力する。それは異世界 へ去ってしまう者への我々の礼儀なのだろう 。私がその頃読んだロートレアモン伯爵の「 マルドロールの歌」に、子どもを埋葬する一 節があるけれど、その時も私はその少女の記 事を思い出していた。ついでだから「マルド ロールの歌」から少し引用してみる。「皆さ ん、病のために人生の初期の姿しか知ること のできなかった者、そして墓穴がいまその胸 に受入れた者が、疑いもなく生きているとい うことを皆さんがあやしんでいるとは思われ ません。」(「第五の歌」第六節より)。
 この世界と死の世界はとなりあわせにつな がっている、ということをどうしてみんな思 い出さないのだろう。それが私には不思議に 思えてならない。しかも、その敷居はとても 低くて、そこを踏み越える決心をしてしまっ た者を引き止める倫理はこの世界には存在し ない。
 ただ、死後の異世界の存在を確信している と私が言ってみても、死んだらどうなるのか 、確実な証拠を握っているひとは誰もいない のも確かである。ひとつだけ確実なのは、そ の敷居を踏み越えてしまったら、もう二度と 今の肉体を持ってこの世界を生きることはで きない、ということだけだ。この事実が死を 引き止める倫理になるのかどうかも怪しいも のだけれど、肉体と、それを成立させている 広大な無意識を自ら壊滅させてまで強引に死 んでしまうことがはたして救いや逃避になる のかどうか、私にはよく判らないのだ。
 もしかしたら、生きるということは、この 世界にいながら肉体と無意識を通して死の世 界と交感し続けることなのかもしれない。そ れをはぶいて強引に自殺してみても、死は救 いにも逃避にもならないように思えて仕方が ない。だから、死を過剰に恐れる必要も無い と思うけれど、自殺や殺人の誘惑はやはり「 悪魔」として封印しておく方がよいような気 がする。それはもちろん大人の仕事なのだが 、その力がどうも弱くなっているように思え てならない。
 もし、死が安らかな眠りのようなものなら ば、私も早く死んでみたいと思うこともない ではないけれど、そこにたどり着くまで私は もっと生きなければならない。心身共に充分 に活動しなければ安らかな眠りは訪れない。 それは死についても同じではないかと私は思 う。死んでゆく子どもと違って、今の私に死 後の世界が保証されているとも思えない。ま た、充分に生きた、と達観して自殺する見識 も私には無い。そのくらいなら、私はだらし ないふりをして、弱いふりをして生き続けよ うと思う。
 死の尊厳とは「自然であること」であるよ うな気がする。死を迎える権利はひとりひと りの個人にあるはずで、よりによって他人や 社会から加えられる圧力によって自殺させら れるのが私には絶対に許せないのである。
 それをおびやかして成立する「美しい国」 なんて糞食らえ、と思う。あの総理大臣が口 にするスローガンは、ヒトラーの腹心たちが 言いつのっていた文句によく似ているように 私には思えてならない。最近あの男は「美し い人間」とか言っているけれど、そのうち「 美しい歴史」とでも言いだすのではないかと 私は思っている。それはナチスのイデオロギ ーと全く同じであるし、あの男が掲げる政策 も、初期のナチスに似ているように私には思 えてならない。ヒトラーほどのカリスマ性も 無いあの男は、薄っぺらなその三番煎じとい ったところだろう。あの男は「自然」の対極 にいるニセ者なのだ。
 現在は占星術で言う「死の星」が我々に向 かって確実に近づいている。それだけのこと ではないのか。ならば、子どもも大人もドロ ップアウトして好き勝手にだらしなく生き続 ければよいのだ。
 逃げ場はいくらでもある。「私」はどうに でも変わってゆく。その意味でこの世界は捨 てたものではないと私は思っている。



[ BACK TO MENU ]