未来の「工房」

月光の印画紙が製造中止になった。ニコン がどさくさにまぎれて引き伸ばしレンズ「エ ル・ニッコール」の製造を止めてしまった。 銀塩写真の、特にモノクロームに関する機材 が急速に姿を消している。しかし、その原因 となっている写真のデジタル化によって業界 がうるおっているわけでもないらしく、だか らこそ、収益の悪い銀塩関係の部門をメーカ ーは削らざるを得ないらしい。
 利便性の優れた先端技術がより大きな収益 を約束する、だからそれ以前の商品はそこに 呑みこまれて消えてゆく、というのならまだ 話は分かるのだけど、今はそんな時代ではな いらしい。銀塩・デジタルを問わず、写真部 門から撤退する大手メーカーが多いことから もそれが分かる。先端技術が消費者だけでな くてメーカーの首をも締めているらしい。
 しかし、一度止めてしまった技術を復活さ せるのは大変な困難を伴う。ニコンが昔のレ ンジファインダーのカメラを復刻した時、そ の値段はとんでもない高値になったことを思 い出してもらえばよいと思う。限定生産で、 しかも標準レンズ付きで百万円に近いカメラ なんてもう骨董品であって、とても日常的に 使いこなせる道具ではないと私は思う。
 収益の悪いものを維持する余裕が大手メー カーに無くなっているのも確かなのだろうけ れど、収益の悪いものは止めてしまえばよい 、という資本主義の論理もすでに破綻してい るような気がする。この時代に、今までの資 本主義はもはやふさわしくないのかもしれな い。写真用品に限らず、儲からなくとも必要 なものを作り続けることが今のままでは難し い。また、先端技術はそんな前時代の技術を 基礎にして成立しているはずである。前時代 の技術が途切れてしまえば、おそらく先端技 術も長続きしない。
 実は、メーカーだけでなくて、それを使う 写真家にも同じことが言えるはずだと私は思 っている。つまり、アナログを、銀塩を使い こなせない奴はデジタルに遊ばれて終わるだ けではないのか、という疑念が私から離れな いのである。
 写真に限らず、デジタルというのはアナロ グの美味しい部分、その氷山の一角を標準化 して理詰めで再構築したもの、と私は理解し ている。だからこそそれは理屈で操作するこ とが可能になる。写真に限らず、デジタルが 登場した頃に「仮想現実」という言葉が流行 ったことがあって、そんなことを言い出した らアナログだって仮想現実には違いないのだ けれど、この言葉はそんなデジタルの虚構を うまく突いていると私は思う。
 要するに、デジタル、つまりアナログの虚 構しか知らない奴は、その外の現実に踏み出 してゆくことが原理的に不可能になる。コピ ーは便利ではあるけれどオリジナルに劣る、 というのはこの世界の鉄則のはずだ。写真が すでにこの世界のコピーに過ぎないのだから 、技術的にそのまたコピーであるデジタルが 「仮想現実」であることは論を待たないので はないか。荒木経惟さんは「写真は世間のダ ジャレである」という名言を吐いているけれ ど、デジタルだってアナログの便利なダジャ レなのかもしれない。もちろん、優れたダジ ャレはオリジナルより面白いのだけれど、そ れを作り出すのは大変なことだ。そして、コ ピーが面白いのは一回目だけ、というのもこ の世界の鉄則である。コピーを繰り返すごと に何事も便利にはなってゆくけれど、説得力 は低下してゆく。それをわきまえたデジタル 写真家がどれだけいるのだろうか。
 現に、デジタル写真をいち早く取り入れて 、うまく使いこなしているのは篠山紀信さん のようなアナログに熟達した巨匠である。デ ジタル世代の若手は、情けないことに篠山紀 信の足もとにも及ばないだろう。そんな若手 たちはデジタル写真の可能性、とか言うこと だけは格好がいいけれど、それは篠山紀信の ような巨匠によってあっと言う間に究め尽く されてしまう程度のものでしかないような気 がする。まさに「砂上の楼閣」である。
 それにしても、いい若いもんがデジタルな んか使うな、と一喝する巨匠、あるいは年寄 りはいないのだろうか。百戦錬磨のアナログ の世界に熟達した巨匠、あるいは年寄りにだ けデジタルを使う資格がある。それを明言す る年寄りがいないのならば、我々はそろそろ 「最近の年寄りはなってない」と言わなけれ ばならなくなる。そんな時代はかつて無かっ ただろう。これを堕落と呼ばずして何と呼ぶ べきか。
 話は変わって、将棋の世界はパソコンやイ ンターネットの普及によって大きく変わった というけれど、弟子に対して四段、つまりプ ロになるまではパソコンに触るな、と指導し ている棋士がいるそうである。プロ棋士はデ ジタルとアナログの境界、その危うさをよく 理解しているのだろうと私は想像する。
 そして音楽の世界では、生ピアノを弾ける ピアニストはエレクトリックピアノを弾ける けれど、その逆は絶対に不可能になる。六十 年代に実用化されたエレクトリックピアノを 弾きこなしたのは生ピアノで前人未踏の実績 を挙げていた三人の天才だけであって、彼ら によって、当初は無限の可能性を持つとまで 言われたエレクトリックピアノはあっという 間に究め尽くされてしまった。この三人とは ジョー・ザヴィヌル、チック・コリア、ハー ビー・ハンコックのことである。そして、こ の三人は末永く活動を続けているけれど、七 十年代以降に現れた、エレクトリックピアノ 、あるいはシンセサイザーしか弾けない若手 は全員が姿を消してしまった。彼らはこの三 人のコピーでしかなかったわけで、アナログ の基礎が無ければデジタルは長続きしない、 ということがここからも恐ろしいほどよく分 かる。
 それでも、八十年代初めにウイントン・マ ルサリスのような若き天才アナクロ演奏家が もてはやされた時に、今の時代はすでに用意 されてしまったのかもしれない。クラシック とジャズの双方を完璧に吹きこなすこのトラ ンペッターは電気楽器を嫌って伝統を賛美し 続けるけれど、自分では新しいものを何ひと つ生み出そうとせずに先達のリメイクを繰り 返している。不思議なことに、それを才能の 浪費と呼ぶひとはいないみたいだ。そして、 彼の、先達をしのぐ驚異的な技巧で演奏され る怠惰で古臭い音楽は、今のデジタル時代の 気分を不思議なほどよく伝えているような気 がする。
 結局、写真でも音楽でも、その可能性は今 や全て究め尽くされてしまった、というのは 一見説得力があるように聞こえるけれど、そ れは怠惰な新人や年寄りの言い訳に過ぎない ように思えてくる。彼らは古臭いスタイルを どこかからひっぱり出してきて、それを最新 の機材や技術でリメイクしようとする。その 時、デジタル技術はとても便利な道具になる のだろう。細江英公さんがデジタル写真につ いて「感心はしても感動しない」と語ってお られたのを私は憶えている。
 どの世界でも、新しい可能性を育てている 新人は世間のどこかに確実に存在する。しか し、情報技術の発達によって、かえって彼ら が広く世に出ることが難しくなっているよう な印象がある。多少不便な時代の方がカリス マや本物の新人は出現しやすかったと私は思 う。そのかわり、情報技術の発達のおかげで 、我々は外の世界から取り残されることなく マイペースで制作を続けてゆくことができる 。そのメリットは忘れずにいたい。
 アナログの、つまり銀塩写真の機材にして も、レンジファインダーのカメラ「ベッサ」 を作り続けている会社のような、小さな良心 的なメーカーによって維持されていってほし い。それは、以前私が書いたように、昔のヴ ァイオリンが小さな工房で、熟達した職人に よって作られていたのと似てくるのではない か。
 余談ながら、カメラ雑誌で見たことがある 「ベッサ」の技術者の方々は、とてもすがす がしくていいお顔をされていたことが私は忘 れられない。私にとって神様に近い、OMの カメラの開発責任者、米谷美久さんもそうだ った。それに比べると、デジタルに専念しよ うとする最近の大手メーカーの技術者の方々 には「いい男」が見当たらないような気がす る。「技術は人間なり」というのはここでも 真実だと思う。もちろん、技術者だけでなく て、それを使う写真家だって同じだろう。そ れはカメラマン、というよりも「工房」を持 った技術者(アーティスト)になるのかもし れない。私自身もそうなれれば、と思う。



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