鏡としての写真

世界中の人間の七十パーセントは電話を使 ったことが無い、のだそうである。トリビア でないトリビアとはこんな事実のことなのだ ろう。これが紹介されていたテレビ番組は「 トリビアの泉」ではなくて「世界一受けたい 授業」である。そこでは、今でも子どもの兵 士が世界中で三十万人もいるとか、今でも奴 隷が何千万人もいるとか、目や耳をそむけて しまいたくなる事実が他にもいろいろ紹介さ れていた。しかし、それでも小さな救いかな 、と思ったのは「だから日本はいい国です」 という雰囲気にならなかったことだろう。私 の記憶では、日本の自殺率は世界のトップク ラスだったと思う。そんなにいい国だったら 自殺するひとがこんなにたくさんいるはずが ない。
 話を戻すと、電話を使ったことが無いひと が七十パーセントなのだから、写真を撮った ことが無いひとは、もしかしたら世界中の九 十パーセントに近いのではないだろうか。も ちろん、世界にはインターネットやコンピュ ータの存在すら知らないひとの方が圧倒的に 多いのである。写真の氾濫だの情報の洪水だ のデジタル革命だのといった言葉は、ほんの ひと握りの人間の思い上がりに過ぎない、と いうことは忘れずにいた方がよいと私は思う 。先端技術を駆使した文明というものは、実 は極めてローカルな現象に過ぎないのかもし れない。考えてみれば、「先端」という言葉 は極めて小さな点しか意味していないのであ る。
 ところで、ベルリンの壁を崩壊させたのは 国境を越えて受信できる衛星放送だった、と いう話があった。しかし、衛星放送もインタ ーネットも北朝鮮には見事なほど無力である 。北朝鮮ではテレビやラジオのチャンネルは 固定されていて、外国からの放送を勝手に受 信できないそうだけれど、大陸の奥地ならと もかく、韓国や中国やロシアや日本に囲まれ た半島国家で、そんな「鎖国」が可能だとい うのは恐ろしいことだと思う。我々は、それ こそ情報の洪水のおかげでそんな事実が見え なくなっているのかもしれない。グローバル 化というのは、もしかしたら世界全体が北朝 鮮になることかもしれない、と言ったひとが いたけれど、情報の中でだけ生きることに慣 れてしまうと、その外の世界が分からなくな ってしまうのだろうか。
 インターネットが登場した時、世界に向け て誰もが情報を発信できる、という美辞麗句 でこれを歓迎した陰で、これは電子落書き帳 に過ぎない、とこきおろしたひともいた。ど ちらも正しかったことが今にして分かる。こ の際だから放言を続けるけれど、写真に限っ てみても世間には掃いて捨てるほどホームペ ージがあるが、真に見続ける価値があるのは 、この「東京光画館」くらいしか無いはずで ある。他は、つまらない落書き帳か単なる掲 示板でしかない。情報の洪水と言っても実態 はこんなものである。しかも、これはコンピ ュータに縁が無いひとには全く無関係なこと なのである。
 世界のほとんどのひとはハイテクに縁の無 い生活をしている中で、何が写真のデジタル 化だ、と私は馬鹿馬鹿しくなってしまうので ある。デジタル写真が発展してゆくのは結構 なことだけれど、写真の全てがデジタルにな ってしまうと、写真はコンピュータの中でだ け完結して外の世界を忘れていってしまうだ ろう。写真の北朝鮮状態、と私は言ってみた くなる。外の世界とのつながりを失った時、 写真は終わるのだろうと私は思う。
 しかし、デジタルであろうが銀塩であろう が、世界中の大多数のひとにとって写真がい まだに「ハイテク」であり「魔法」であるこ とに変わりはないだろう。実は私にとっても そうである。写真があふれている日本という 国に暮らしていようが、私自身がそこで日々 写真を撮り続けていようが、写真は私にとっ て決して「日常」ではない。たとえば、私に は今でも、写真が写るということが不思議で 仕方がない。写真に初めて接した非文明人と 何ら変わるところは無いのである。だから、 私はこうして飽きもせずに写真を続けていら れるのだと思う。
 写真の魅力というのは結局それに尽きるよ うな気がする。それは写真特有の微細な記録 性によるのでもないし、芸術を錯覚させてく れる写真のトリックによるわけでもない。た だ単に、写ることに対する驚きと畏敬の念で ある。それは、もしかしたら鏡を初めて手に した古代人の驚きに似ているのかもしれない 。古代人たちは、鏡が自らを映し出すことに 決して飽きたりはしなかったと思う。彼らは それに恐れの念を持ち続けていたはずで、そ の気持ちは今でも我々の中に残っているよう に思う。それが、写真の魅力にどこかでつな がっているような気もする。
 写真は衣食住にかかわる生活必需品とは言 えないし、美術や文学のような古い歴史を持 っているわけでもない。それは大げさに語る ほどのものではない、という考えは確かに正 しい。写真はたかだか二百年足らずの歴史し かない、極めて新しい技術である。であれば 、近代になって突然現れた写真は、古代人が ある日突然発見した鏡のように、畏敬の念を 持って愛される技術(アート)なのだと思う 。私が言うまでもないことだけれど、フォト グラフィーの正確な訳はまさに「光画」であ った。そこに「真実を写す」という意味は無 い。結局、鏡が左右反対にしか現実を映さな い程度にしか写真はこの世界を写さないのだ ろう。その嘘が我々の無意識をあばき立てて しまうのが写真の何よりの面白さだと私は思 う。
 大方の写真家は「写真」という美しい訳語 に自らだまされているのではないだろうか。 もし、デジタル写真がその呪縛をうまく解い てくれるのなら私もデジタル写真を好きにな れるのかもしれないけれど、それだけの力量 と慎ましさを兼ね備えた写真家がいるのかど うか、私には分からない。
 いずれにせよ、フォトグラフィーは「写真 」ではなくて「光画」である、と考えること ができれば、写真家はもっと気楽に、そして 畏敬の念を持って写真を撮ることができるよ うな気がする。
 そして、写真は美術や文学と同じ程度にし かこの現実を記録しない、と考えてみるのは とても面白い。見方を変えれば、写真が登場 する以前の美術や文学は、その時代を現在の 写真と同じくらいリアルに伝えているのでは ないか、と考えることもできるからだ。
 絵画に限って考えてみても、数万年前の洞 窟に残された原始人の精緻な壁画は我々に圧 倒的な迫力を持って迫ってくるけれど、彼ら には世界がそれほどまでリアルに見えていた のだろう。そして、ずっと時代が下った中世 キリスト教世界の絵画は、その稚拙さと残酷 さで我々を呆れさせるものが多いけれど、も しかしたら、彼らにはその程度にしか世界が 見えていなかったのかもしれない。(余談な がら、アニメ版「サザエさん」を愛好する大 人たちには、あの程度にしか家庭や世間が見 えていないのかもしれない。)
 その後、近代になって絵画が生気を取り戻 すと、それは「芸術」に変貌してゆき、それ と並行するように写真が発明されることにな る。ここで、時代の空気と美意識を記録する という役割のかなりの部分は絵画から写真に 引き継がれたように見える。後世のひとびと は、我々が撮り続ける写真に、写真家の個性 よりもこの時代の空気と美意識を読み取るこ とになるのかもしれない。
 結局、フォトグラフィーが生真面目な「写 真」である限り、写真は浮かばれないような 気がする。繰り返しになるけれど、写真が「 鏡」としての正確さといかがわしさを保ちな がらも自由になるために、デジタル写真は助 太刀を振るうことができるのだろうか。それ とも、デジタル写真の発展と普及は、先端技 術の暴走と空回りに終始してフォトグラフィ ーを無効にしてしまうだけなのだろうか。あ るいは、それは写真の本質に何ら関係無い事 象に過ぎないのだろうか。私は無責任なアナ ログ・アナクロ写真家として、その様子を見 物していようと思う。
 世界の大多数のひとにとって、写真はいま だに特別な技術(アート)なのだ、というこ とを私は忘れずにいたいと思う。そして、た とえ非文明人であっても、初めてフォトグラ フィーに接した時に、生真面目な「写真」と してではなくて、嘘と遊びを含んだ「光画」 としてそれを楽しく受けとめてくれるひとが いるはずだと私は信じたいのである。



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