先日、やわらさんが「私の本棚」で「美人
は得である」と書いていたけれど、本当に美
人は得なんだろうか、というのが私のかねて
からの疑問なのである。
とは言っても私は女性ではないのでその気
持ちを身にしみて想像することはできない。
ただ、美人というのは周囲の、特に男性の幻
想に過ぎないのではないか、というのが最近
の私の感想である。
私が二十代初めの頃、その理由は忘れてし
まったけれど、職場の同僚の女の子に「女の
子は自分のことを可愛いと思っているものな
のかな」という質問をしてみたことがあって
、その答えは「普通はそうは思っていないと
思う。中には自分を可愛いと思っているひと
もいるけれど」というものだった。我ながら
変な質問をしたものだと思うけれど、この答
えを聞かせてもらった時から私の美人への幻
想が醒め始めたような気がしている。聞くと
ころによると、彼女は今、可愛いお嬢ちゃん
の母親になっているとのことである。しかし
、「わかっちゃいるけどやめられない」とい
う名言のとおり、私の幻想が本格的に醒めて
くるまでには長い長い茨の道を歩む必要があ
った。これを「バカ」と呼ばずして何と呼ぶ
べきか。しかし、その「バカ」は生きる勇気
を与えてくれる甘美な幻想でもあったのであ
る。
しかし、「バカ」は別に私だけではないの
であって、今だから言えるけれど、私に劣ら
ず狭い世界の中でだけ生きていた綺麗な彼女
も私に劣らず「バカ」であった。バカどうし
がデートをしてもろくな結果になるわけがな
く、これは自業自得というものである。こう
なると、それぞれの幻想から早く醒めた方が
勝ちということになるのだが、私が勝ったか
どうかはいまだによく分からない。
つまり、普遍的な美人の基準など存在しな
いのに、特に男性はあたかもそれが存在する
かのように考えてしまいがちなのだと思う。
学校で習った歴史や地理を思い出してみれば
、美人の基準がいかに時代や場所に左右され
るものかということが納得できると思う。
そこで思い出すのが南伸坊さんの名著「顔
」である。無作為に選んだ数十人の若者の顔
をコンピュータで合成すると、美人や美男子
になるというのである。「美人」は実は平均
値である、という意外な結果が示される。「
美人」が幻想に過ぎない、ということがこの
ことからも分かる。そして、ここで示された
美人は顔だちが整っているだけで、不思議に
色気を感じさせるところが無い。どうやら、
容姿と色気は別物ということらしい。
その、南さんの師匠のひとりとなった養老
孟司さんに、色気について考察した文章があ
った。それによると、「女の美しさが破綻す
ると、卒然として色気がこぼれるらしい」と
ある。美人はもとの規格が明瞭だから破綻も
明瞭で、すなわち色気が分かりやすい、とい
うことになるらしい。要するに、何事も分か
りやすいから美人が人気を博する、というこ
とになるのだろうか。結局、美人は平均値、
という同じ結論がここからも出てくるような
気がする。それが真実なら、いつまでも平均
値に憧れているのは見苦しいだろう。
「美人」に限らず、何事につけ平均値とは
一般的な幻想に過ぎないのだと思う。吉本隆
明ではないけれど、「共同幻想」と言っても
よいのかもしれない。その意味では「美人」
は「普通」に似ている。たとえば、「普通の
生活」なんてものは実際には存在しない。ひ
とりひとりの生活は、そんな平均値からそれ
ぞれの距離を置いたところで営まれるはずで
ある。
私にこんなことを言う資格があるのかどう
か分からないけれど、テレビの女性アナウン
サーが時として大変見苦しく思えるのは、そ
んな共同幻想を演じようとするさもしさが露
呈するからかもしれない。女優でもないのに
、それを演じようというのは身のほど知らず
だと思う。ならば、のっぺらぼうのように微
笑みを浮かべている女性アナウンサーの方が
私は安心して見ていられる。いずれにせよア
ナウンサーや女優は仕事でそれを演じている
のだから我々には何の関係も無い。ただ、ま
れにではあるけれど、演じて作り出している
とはとても思えない重厚な魅力をお持ちの女
優さんもおられるので、私の印象もあてには
ならない。それは世間にあふれている、口当
たりのよい空っぽの綺麗さとは全く異なった
美しさを私に教えてくれる。再録が可能なテ
レビや映画ではなくて、やり直しがきかない
舞台の女優さんにそんな美しいひとがおられ
るように思う。
それはともかくとして、容姿に限って考え
てみても理想の異性像というものは誰にでも
あって、もちろん私にもある。それは「平均
値」とはそれぞれ異なっているものではない
かと私は思うけれど、なぜ自分がそんな容姿
を好きになってしまうのか、突き詰めて考え
てみるとよく分からなくなる。問題は、そん
な容姿を備えた女性は私と気が合うに違いな
い、と何の疑いも無く確信してしまう私の幼
さにあった。それを、いくらかでも距離をお
いて眺められるようになるまで私はずいぶん
時間をかけてしまった。やはり、「バカ」と
言うしかない。
数年前、私が小学校二年生の時の担任だっ
た恩師と三十年ぶりにお会いした折りにこの
話題が出た。すると先生は「あたしのクラス
にいた時にあなたが仲良くしていたのがそん
な子だったじゃない」とおっしゃった。言わ
れてみればそのとおり、というわけで、その
時に私の長年の謎が解けたのだった。結局、
最初の刷り込みから逃れられないのである。
先生は彼女から来た最近の年賀状を私に見せ
て下さったけれど、そこには彼女のお嬢ちゃ
んが写っていて、それはかつての彼女によく
似ていてとても懐かしかった。結局、幼い頃
の愉しい記憶をさすってくれる容姿が、私の
「理想の女性像」なのかもしれない。
そんな幼い頃のクラスメートはともかくと
して、大人になってから好きになってデート
をしたりして、しかし今はどこで何をしてい
るとも知れない彼女は、年に一回くらい私の
夢に出てきたりする。別に未練があるわけで
はないし、性的な幻想を抱いているわけでも
ない。特に何の理由も無く、ふっと思い出し
たように彼女の夢をみることがあるのだ。不
思議なことに、その夢の後に訪れる朝はいつ
も美しい光に満ちている。毎朝そんな光の中
に目醒めることができたらどんなによかろう
かと思ったりする。
その、夢に現れる彼女は昔のままの彼女で
はない、ということに気づいたことがあった
。年を経るとともに、夢の中の彼女も洗練さ
れて大人になっているのである。もはや、か
つての彼女とは別人である。これが男の身勝
手なのかもしれないけれど、夢の中の彼女は
現実に存在した彼女とは絶縁して、私の記憶
の影でさえなくなって、理想の女性像へと変
貌を遂げつつあるのかもしれない。誤解され
ると困るけれど、それは決して聖女というわ
けではない。ユングの心理学にそんな異性像
についての話があったような気がする。
ところで、この世界には数十億もの人間が
生きている。そのひとりひとりがそれぞれの
見方で同じ世界を見て、それぞれに違う人生
を生きている。これは当たり前のことではあ
るけれど、その奇跡が私には本当に神秘的に
思えることがある。私は私の見方でしかこの
世界を見ることができない。私に限らず全て
のひとがそうなのだろう。であれば、どれだ
けたくさんの人間がひしめいていても我々は
ひとりひとり限りなく孤独であるというしか
ない。しかし、その孤独はおそらく広大な宇
宙にとり残された人類の種としての孤独に通
じている。だから、孤独は連帯への可能性に
も通じている、ということになる。
これを異性との関係に置き換えてみると、
どれだけつきあいを深めようとも我々はそれ
ぞれの優しさを相手に投影することしかでき
ない。たたかいもたれあって、それでもお互
いの孤独がぬくもりとともに深く交流できる
のなら、我々は安らいで幸せに生きてゆける
のかもしれない。
結局、懐かしさを優しくさすってくれる女
性に出会うことができたのならば、耳を澄ま
すようにして未知の彼女自身を少しづつ好き
になってゆけばよいのだろうという結論に今
さらながら到達する。それが、もしかしたら
未来への希望につながるのかもしれない。そ
んなひとは必ず、私の理想の女性像を思わせ
る容姿をどこかしら備えている。共同幻想に
過ぎない「美人」に憧れるよりも、これはず
っと素敵で幸せなことだろうと今の私は思う
。彼女自身も私をそんなふうに見てくれれば
私はとても嬉しい。
追伸、「ビーイング・ビューティアス」と
いうのはランボーの詩のタイトルです。彼の
最後の詩集「イリュミナシオン」に収められ
ています。「美しき存在」とか「美へのうご
めき」とか訳されているようです