デジタルへ愛をこめて、ふたたび
以前、私はデジタル写真について、水や闇
と無縁なまま成立するそれがエロティシズム
を感じさせないゆえに興味が持てない、と書
いたことがあったけれど、今やデジタル写真
は銀塩写真に完全に置き換わろうとするかの
ようである。何を今さら、と言われてしまい
そうだけれど、写真の主流はもはやデジタル
である。そして、少なくともカラー写真につ
いては私もいずれデジタルに移行するのでは
ないか、という気がしている。わりと素直に
私はそれを自分のものにすることができるだ
ろう。デジタル写真が私のようなアナログ・
アナクロ人間にも使えるくらいに成熟してき
たように思えるからだ。新しい技術は自分に
適合してくるまで放っておいて待っている、
という傲慢でものぐさな態度を私はこれから
もつらぬいてゆこうと思う。
それにしても、エロティシズムうんぬん、
という個人的な理由はさておくとして、銀塩
写真にはネガやポジという実体のあるオリジ
ナルがあるけれどデジタル写真にはそれが無
い。そこのところがどうにも胡散臭くて私は
完全にデジタル写真に移行するつもりにはな
れない。
つまり、デジタル写真は現実と写真との対
応を切断することによって、銀塩写真には無
い自由を獲得しているのだろうと私は思う。
銀塩写真ではずいぶんと恣意的ではあるけれ
ど、被写体とネガやポジとの間に正確な対応
を認めることができるはずだ。そのことが写
真の信頼を支えてきたと言ってよいだろう。
しかし、デジタル写真は被写体をネガやポジ
という実体ではなくデータの集積に変換する
ことによって、写真と現実との関係を完全に
切断してしまった。それによって得られた自
由は我々が今考えているよりもずっとアナー
キーなものだろうという気がする。デジタル
で出力されたプリントやモニター上の虚像は
、たまたま現実に似ているように見えるだけ
だ、たまたま写真であるように見えるだけだ
、そんなふうにさえ私には思えてしまう。そ
の意味ではデジタル写真は「写真」ではなく
て、人間の想像力の正確な現れと考えた方が
よいような気がする。
また、写真を操作してイメージを表現しよ
うとすることは写真家にとって甘美な誘惑で
あるけれど、それは結局写真と写真家の破滅
につながる。七十年代の森山大道や深瀬昌久
の写真を思い出せばそれはよく分かるはずだ
。ふたりの卓越した暗室技術がそれを可能に
したわけだが、デジタル写真ではそれが誰に
でも可能になる。デジタル写真に魅惑されて
いる写真家たちはその誘惑に勝てるだろうか
。その地獄から帰ってくることができるだろ
うか。余談ながら、私にはふたりのような暗
室技術は無いので、暗室で写真を操作してイ
メージを表現しようとしたことは一度も無い
。技巧が無いというのは実は幸せなことなの
である。結局、素直であろうとする以外に私
に選択肢は無いのであって、そのおかげで私
は写真を続けることができるのだとさえ思う
。プリントにネガの情報をなるべくたくさん
盛りこんで、暗闇の中で写真の誕生に立ち会
うこと、それが私にとっての暗室である。
要するに、実体を失ったデータからはどん
な恣意的な情報でも出力できるのである。そ
れは、データを操作して写真という事実を改
変できる、という可能性にとどまるものでは
ないだろう。撮影によって得られた、デジタ
ル写真の元になるデータは、もしかしたら楽
譜として扱うことによってそこから不思議な
音楽が出力できるかもしれない。そこから奇
怪な予言が出力できるかもしれない。撮影に
よって得られたデータの中に存在する、ある
規則性にだけ注目すれば、それは充分に可能
なことだろうと私は思う。ネガやポジという
実体を捨てるかわりに、写真家はそんな得体
の知れないデータを集積することになるので
ある。
そして、みんな薄々感づいていることだと
は思うけれど、写真が動画に呑みこまれてし
まうのは時間の問題ではないか、ということ
だ。高品質なデジタルスチルカメラに動画や
音声も記録できるようになるのはもうすぐの
ことだろうし、カメラメーカーもその開発に
余念が無いはずだ。動画の画質がスチルカメ
ラのそれと同等になる時代もいずれやってく
る。その時、写真は一度死ぬことになる。今
までの写真を成立させていた多くの約束事が
全く無効になってしまうからだ。シャッター
チャンスとか決定的瞬間という言葉も死語に
なる。撮影された動画の中からそれを選べば
よいからだ。足りない部分はデータを操作し
ていくらでも作り替えられる。それは「写真
家」がいなくとも可能な仕事である。つまり
、写真の死と同時に写真家も姿を消してしま
う。後には何も残らない。現在、デジタル写
真の尻馬に乗ってはしゃいでいる連中はあっ
という間にこけてしまう。実は私はその時が
来るのを楽しみに待っているのだ。写真はデ
ジタル技術によって自由を獲得する代わりに
操作可能なものになり、いずれ動画に呑みこ
まれて消滅してしまうだろう。
そして話は変わるようだけれど、写真と映
画の才能は絶対に両立しない。どちらか片方
を遊びで手掛けるひとはいるけれど、両方の
分野で仕事を続けて、それがともに高い評価
を受けたひとは今までひとりたりともいなか
ったと思う。写真家で映画監督というひとは
いないのである。時間を止めるか流れさせる
か、この違いはこれほどまでに決定的なのだ
。おそらく、脳味噌の使い方が写真と映画で
は全く異なるのだろうという気がするのだが
、デジタル写真はこの壁をもいずれ曖昧にし
てしまうだろう。それに写真家が耐えること
はできないはずだ。そんなわけで、写真は甘
美な死へ向かって確実に歩み始めているので
ある。
繰り返しになるが、デジタル写真は遅かれ
早かれ「写真」ではなくなって、何かに呑み
こまれて消滅してしまうだろう。そして、別
のメディアが登場することによって世間も現
在のような写真を全く必要としなくなるのか
もしれない。その徴候はすでに現れているよ
うな気さえする。写真がプリントとしてでは
なくて、モニター上の虚像として扱われて消
えてゆくのがそれだ。すでに私は、デジタル
写真が出現する以前に撮影され発表された写
真を特別な懐かしさで見ている。これは疑い
なく「写真」なのだ、と。
そんな未来には、銀塩写真が言葉本来の意
味での「趣味」としてよみがえるのだろうと
私は思う。それは時間潰しの怠惰な趣味では
なくて、人生を懸けた真剣な楽しみとしての
「趣味」である。芸術とも記録とも微妙に異
なった、真のアマチュアリズムの復権である
。写真が直接に世間から必要とされなくなっ
た未来には、写真はそんなふうに存在するこ
とになるのかもしれない。
しかし、考えてみると、そんな写真のあり
方は戦前の、安井仲治や飯田幸次郎が活躍し
ていた時代のそれによく似ているのではない
だろうか。当時は広告写真など無いに等しか
っただろうし、報道写真の需要も今よりもは
るかに少なかったはずだ。現在、このふたつ
の分野でデジタルが銀塩を完全に駆逐してし
まったせいで、銀塩写真のあり方は意外なほ
ど当時に似てきたように思う。フィルムや印
画紙が高価になり、カメラの種類が減ってき
たのも似ている。
そんな厳しさのなかでも戦前の写真家たち
は必死で自由な活動を続け、写真を楽しんで
いた。以前、雑誌「デジャ・ヴュ」の安井仲
治特集号で、彼のベタ焼きを見たことがある
けれど、彼はひとこまごとに心をこめて、し
かし自由に撮影していたのがそこからよく分
かった。フィルムが高価だったせいもあって
、現在のように無造作にシャッターを押すこ
とができなかったせいもあったのではないか
と思う。しかし、そんな営みの中から現在も
輝きが失せることのない名作がたくさん生ま
れている。それは時間を越えた普遍的な魅力
を持って我々に語りかけ、当時の美術や映画
以上に時代の空気をも伝えてくれる。それは
、写真が広告や報道といった「実用」から今
よりも自由であったことと、銀塩写真は「実
体」であって、それには現実の裏付けが確実
に存在していたことによるのかもしれない。
そこに私は未来につながる銀塩写真の可能性
を見い出したいと思う。