夢みる頃を過ぎても

私の大好きな坂田靖子の連作長編マンガ「 バジル氏の優雅な生活」に「夢見る頃を過ぎ ても」という一章がある。私は坂田靖子以外 のマンガ家にはほとんど関心が持てないほど の坂田靖子ファンなので、その中でもタイト ルのとおり飛びっきり優雅なこの長編につい て私はあまり書きたくはない。本当に好きな ものを自分の言葉で要約して説明してしまう のは野暮の骨頂であって、それを深く味わえ るひとだけがそれぞれ深く味わっていればよ いのだ。誰にも教えてやんないもんねこの楽 しさ、というわけである。
 それは尾崎翠の小説とか、ポール・ブレイ のピアノとか、ひいきにしているお店で味わ うコーヒーや料理とか、好きな温泉とか、気 持ちの通った友人や先輩と過ごすささやかな 時間と似ていて、もっと直截に言えば、本当 に好きだった女性についてあれこれ語る気に なれないのと同じことなのだ。
 最初から話が脱線しているけれど、夢につ いて語ろうとしているのだからこれでよいの である。「夢見る頃を過ぎても」の中に、主 人公のバジル氏が「君はいつでもとてもいい 夢を描いているが」「それを現実につかまえ ることを 今度もまたあきらめるのか?」と 冷たく言い放つ場面があって、それに腹を立 てた彼の友人が意中の女性にようやくプロポ ーズしてめでたくゴールインする、というふ うに話は進む。「面と向かって嫌われる人間 がひとり必要かもしれないと思ったんだ」と 友人が去った後、バジル氏は召使いのルイ君 に言い訳をする。
 残念ながら本当の「現実」はもっと混みい って複雑怪奇なので、なかなかこんなハッピ ーエンドを迎えることはできないのだけれど 、だからと言ってその男が言い返す「僕が夢 見るだけのアホウだと言ったな?」という台 詞のようにいちいち自嘲する必要も無いのだ ろう。もしかしたら、夢を見続けることと夢 をかなえることは別のことなのかもしれない のだ。結局、私を含めて、夢みる体質を持っ て生まれたひとは、現実をしたたかに生き抜 きながら、それと並行してぬけぬけと夢を見 続ければよいのだと思う。そして、それが夢 をかなえるための技術だと私は信じる。そこ では挫折でさえ夢の一部になるのだ。「バジ ル氏の優雅な生活」では「夢見る頃を過ぎて も」の次の章は「幸福な娘たち」、「エバラ ード」、そしてこの巻の最終章「月の階段」 へと続く。その中で、坂田靖子は私に何度も 美しい夢をほのめかしてくれる。それは、は かない夢ではなくて、この現実を巻きこんで 現れてくる力強くて暖かい夢である。
 ところで、この「はかない」という言葉を 漢字で書くと、にんべんに夢という字「儚い 」になるのだけれど、目醒めている時の夢想 にせよ眠っている間にみる夢にせよ、それが はかないものだと私にはどうしても思えない のだ。夢の表層は確かに儚く消えてしまうの かもしれないけれど、その本体はフロイトや ユングが言うように無意識そのものであって 、無意識以上に強靱で手ごわい相手はおそら くこの世に存在しないはずなのだ。
 夢という言葉が睡眠中に体験する知覚の他 に、将来への希望をも意味することを私はか ねがね不思議に思ってきたけれど、両者とも に無意識からやってくるものであることを考 えれば、これはそれほど不思議なことではな いのかもしれない。なぜその夢をその晩に見 る必要があったのか、なぜその希望を私が抱 くに至ったのか、深く考えてみると結局よく 分からなくなる。それが無意識のはかり知れ ない広大さなのだろう。
 その広大さに目を向けることなく、夢を、 あるいは「夢」という言葉をみんな軽く見す ぎているのではないだろうか。たとえば、最 近の教師が子どもたちに将来の希望を訊く時 に、安易に「君の夢は?」と言ってしまうの は間違っているのではないか、という記述を 私は読んだ記憶がある。将来の希望の源泉は 睡眠中の夢同様に無意識にあるとしても、そ れを実現するための努力は覚醒したこの現実 の中で行われなければならない。それを安易 に「夢」と呼んでしまうと、そんな努力がた やすく無意識に負けてしまうような気がする 。それはまさに「夢」のままで終わってしま う。たやすく無意識に負けてしまうのは何と も情けないことである。無意識に負けないた めにも、睡眠中に見る夢と、将来への希望は 区別しておく必要があるはずだ。その上で無 意識と遊ぶことができれば、それは冒頭に書 いたような最高の快楽になるに違いない。
 そして、世間で言うところの「夢を追う」 という表現も私にはよく分からない。夢は追 うものではなくて、夢が追いかけてくるもの だと私は思っているからだ。やはり、みんな 夢を甘く見過ぎているのではないか。
 夢はこの宇宙の光と闇の象徴である無意識 の使者である。単なる将来の希望も、それが 「夢」と気づいた時からそんな凶暴な無意識 の刻印を帯びることになる。そんなものを「 追う」とはいったいどんな了見なのだろう。 それは巨大な意思を持ってひたすら私を追い かけてくるものだとしか思えない。夢に追い つかれてしまったら、つまり無意識に呑みこ まれてしまったら全ては終わってしまう。夢 は薔薇色の希望をちらつかせながら、私の意 識を浸食しようとしてうごめき続ける怪物で もある。そこから手を替え品を替え逃げ続け るのが私にとって生きることだったような気 がする。
 逆に、夢の表層にひかれて追いかけてみた ら、それがグロテスクな怪物であることに気 づいてしまった。そして逃げる間もなく怪物 に呑みこまれてしまう。だから大方のひとは 夢を追うのを止めて凡庸に生き始めるのだと 私は思う。彼らは最初から間違っているので はないか。
 そもそも、私はあきらめられるような甘い 夢など一度も見たことは無い。破れたように 見せかけて、夢というやつは形を変えて何度 でも私を追いかけてくる。繰り返しになるが 、夢は追うものではなくて、それに捕まらな いように逃げるものなのだ。
 ただ、逃げれば逃げるほど、夢はわけの分 からなさを増して私を追いかけてくる。まさ に晴れた日の影法師みたいだ。夢から逃げよ うとするばかりなのもあまり賢明ではないの かもしれない。夢と現実、つまり無意識と意 識の境界もそれほどはっきりしたものとは思 えないし、当然のことながら両者はクライン の壺みたいにつながっている。その豊かな稔 りを素直に受け取れるようになる方が得であ る。それが「夢をかなえる」ということなの だろう。
 いずれにせよ、無意識に呑みこまれて凡庸 に生きることを避けるためにも、夢の正体を 見極める努力が必要になるわけだが、研ぎ澄 まされた生真面目な意識はそこではあまり役 に立たないような気がする。覚醒してはいる けれど、何もしていない無為の時間がもっと 必要なように思う。意識と無意識が浸透しあ う時間を持たないと大切なものが逃げていっ てしまうだろう。結局、みんな偽りの真面目 さを装って、夢に追われる代わりに無機質な 時間に追われているのだ。それは普段ないが しろにされている夢からの復讐かもしれない 。本来の時間というものはもっと柔らかいも のではないかという気がする。
 夢、つまり無意識の中では善と悪の区別は 無くて、過去も現在も未来も同時に存在して いる。夢は覚醒した意識を呑みこもうとうご めくアナーキーな怪物であるけれど、疲弊し た意識を優しく休息させて勇気を与えてくれ る隠れ家でもある。結局、鉢植えに水をやる ように夢とつきあう知恵が必要になるのだろ う。その時、夢は追うものでも追われるもの でもなくなって、生きている限りつきあい続 ける素晴らしいパートナーになるのかもしれ ない。
 それにしても、夢みる頃を過ぎてもこんな ことを考えているのはいつのまにか私だけに なってしまったような気がする。本当に心も となくて孤独である。しかし、空気のように 孤独に慣れてしまわないと夢とつきあうこと はできないみたいだ。私が知っている数少な い夢みる大人たちは、世間的に成功しようが 優しい家族や友人たちに囲まれていようが、 恐ろしいほどに孤独である。彼らはにこやか に、そして豊かに孤独を噛みしめている。そ れが彼らの優しさと魅力をかもし出している 。そんなふうに生きる資格だけは私に与えら れたのかもしれない。
 最後につけ加えておくと、夢は「見る」だ けのものではなくて、五感や性感までも総動 員して「体験する」ものなので「夢見る」と いう表現は不適切だという文章を私は読んだ ことがある。日本の古典では「夢」という名 詞に接尾語「む」がついて「夢む」という動 詞になるので、やはり夢をみることは、ひら がなで「夢みる」と書くのが正しいのだそう だ。近世までの日本人は夢みることの意味を よく理解していたのだろうと思う。



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