この年末年始の休みの間、私は吉本隆明の
「共同幻想論」を読み返していた。通読した
のは二回目で、前回は数年前、遠野へ旅をす
る電車の中でだった。この本は「遠野物語」
と「古事記」を扱っているからだ。
本の内容を分かって読んでいるのか、と問
われれば、はなはだ心もとないけれど、この
本はいちど読み始めると読者を最後まで離さ
ない力があるのは確かだと思う。その力に身
をまかせるだけの小さなきっかけと、それに
耐えられるだけの成熟が読者に備わっていれ
ば、この本の快楽を味わうことは難しくない
と私は思う。
内容を充全に理解できなくとも読書の快楽
を味わうことができる、という意味ではこの
本は論文というよりも散文詩に近いのかもし
れない。吉本隆明は詩人として文筆活動を始
めた、ということはそんな意味で重要なこと
なのだろう。
以前、吉本隆明とモーリス・ブランショを
一冊の本の中で論じていたひとがいたと思う
けれど、重大な影響を与え続けている批評家
でありながら、「弟子」が全く存在しないと
いう意味でこのふたりは似ているのかな、と
素人である私なんかは思う。その文章は明晰
で、内容がよく理解できなくとも読者をひき
つける力がある、というところも同じだと思
う。散文詩のような読み方ができる、という
のはそんな意味だ。
ただ、吉本隆明にせよモーリス・ブランシ
ョにせよ、このふたりについて書かれた文章
の中で、そんな不思議な魅力をたたえたもの
がはたしてあるのだろうか。「批評の批評」
が魅力的に成立するのはおそらく不可能なこ
とであって、それを寄せつけずに孤高の活動
を続けるのが超一流の批評家の凄さなのだろ
う。ここで、吉本隆明が詩人であり、モーリ
ス・ブランショが小説家である、ということ
はやはり重要であるような気がする。それは
批評家として、批評される言葉を身をもって
知っている、ということになるからだ。野球
をやったことがない奴が野球評論家になる無
茶を考えてみれば、それはよく分かることの
はずなのに、世間にはそんな手合いが結構多
いような気がする。
ところで、吉本隆明の著作をあまり読んで
いない私がこんなことを言うのは僣越極まり
ないけれど、彼の文章は科学論文のスタイル
で書かれているのではないか、と私は以前か
ら感じていた。彼は大学で応用化学を専攻し
て、文筆活動に専念するまではインキ会社や
特許事務所に勤めていたからだ。科学論文の
読み方を知らない文科系の学者たちが見当違
いの扱いをするから吉本隆明の著作は難解に
なってしまうのだろう、と私は思っていた。
吉本隆明の詩魂は、彼が科学論文のスタイル
を学ぶ過程で鍛えられ、その稔りは詩だけで
はなくて、後の膨大な批評の中で花開いた、
と私は考えてみたい。
そんなことを思うのも、私自身、農学部で
修士論文を作成する折りに、先生に徹底的に
鍛えられた経験があるからだ。「日本語は主
語がなくとも成立する言語だけれど、お前は
それを多用しすぎる」と繰り返し諭されて、
明晰で簡潔な文章を書くことを私は教わった
。最高の文章修業をさせていただいたことに
感謝する他はない。その後、こうして自分で
文章を書くようになってみると、詩魂は明晰
さの中から現れるものだ、ということくらい
は私にも分かるようになった。つまり、物を
見る目も同時に鍛えていただいたのだ。
ただ、医学部の先生だった養老孟司さんが
、スタイルは内容を規定してしまうものだ、
とどこかで書いておられたのを私は憶えてい
る。つまり、科学論文に盛り込める「真実」
は非常に限られたものだ、ということを言い
たかったのだと思う。吉本隆明もそれを痛感
していたはずだ。いずれにせよ、「科学者」
を離れた後のふたりの膨大な著作活動がそれ
を示しているように私には思える。余談なが
ら、養老さんの文章は科学論文よりも歯切れ
のいいお経のように私には感じられる。それ
が解剖学と関係あるのかどうか、私には判ら
ない。
話がずれてしまったけれど、今頃になって
「共同幻想論」を読み返したきっかけは、書
店で彼の次女である吉本ばななと河合隼雄さ
んの対談「なるほどの対話」を見つけたこと
だった。
彼女は私と同世代だけれど、吉本ばななが
デビューした頃、彼女は絶対に大成する、と
いう評を私は読んだ記憶がある。つまり、彼
女には父の吉本隆明という巨大な壁がある。
知性だけでは絶対に乗り越えられない壁なの
だから、彼女はそれ以外の方法で成長してゆ
かなければならない。そのことが彼女を大成
させるだろう、という内容だったと思う。
その「壁」が実際にどんなものだったのか
、ここで吉本ばななは告白している。父の吉
本隆明も講演で自分の子育て事情を語ってい
るけれど、このふたつをあわせ読んでみると
本当に面白い。吉本隆明の、書くことと家事
が一体となった暮らしのありようをうかがう
こともできて、そこにこの父娘の「無意識に
たたみかける言葉」の源泉をかいま見る思い
がする。
吉本隆明の奥さんのことは私はよく知らな
いけれど、彼らの長女はマンガ家だから、一
家四人の中に飛び抜けた言葉の使い手が少な
くとも三人はいたことになる。これは壮観だ
と思う。むせるような温室の中で花が咲き乱
れている印象である。その軋むような辛さも
同時に想像できる。
「共同幻想論」の冒頭近くで吉本隆明は「
入眠幻覚」について執拗に語っているけれど
、そのことが吉本ばななの高校時代の強烈な
眠気を連想させたりもする。高校になじめな
かった彼女は三年間、家でも学校でもひたす
ら眠り続けていたらしい。両親はそのことに
ついて何も言わなかったそうだ。さすがだと
思うけれどそれは大変なことで、でも家族と
いうのはもともとそんな大変なものなのかも
しれない。ともあれ、その長い眠りを経て吉
本ばななは小説家になるわけである。失礼と
は思うけれど、「共同幻想論」の「巫女論」
や「他界論」を私は連想してしまう。要する
に、眠りは他界への旅、ということをこの父
娘は違うスタイルで語っているような気がす
る。他界とこの世界の関係を執拗に追求して
いるところも同じだ。そして、吉本ばななの
小説に時折現れる、ぶっきらぼうで変わり者
で、それでも細やかな愛情に満ちた父親はど
こかしら吉本隆明を思わせるところがある。
短編「うたかた」のお父さんのことだ。
実は、この父娘は言語がスタイルを変えて
伝承されてゆくありさまを見事に体現してい
るのではないだろうか。当人たちが軋むよう
な辛さを味わうかたわらで、彼らによって魂
を吹きこまれた言葉が鮮やかな変身を遂げて
伝承され生き続けてゆく。そのことが読者の
無意識を揺り動かすのかもしれない。
「なるほどの対話」を読み終わった後、私
は数年前に出た父娘対談「吉本隆明×吉本ば
なな」を思い出して、「共同幻想論」と一緒
に読み返してみた。吉本隆明が海で溺れ、吉
本ばななが長編「アムリタ」を出した後に出
た本だ。
この本の面白さは格別で、ここにはこの父
娘の著作を面白く味わうための鍵がたくさん
隠されているように思える。吉本ばななが父
の著作について全く語っていないのが物足り
ないと思うけれど、吉本隆明が娘の小説につ
いて語っている部分は特に面白い。「人間を
書いているのではなくて場を書いている」と
か「人物はいつでも交換ができる」というの
はこの父娘の著作を楽しく読むためにとても
大事なことのように思う。
話は変わるけれど、もしかしたら、これは
写真にとっても極めて大事なことかもしれな
い。括弧つきの「私」のまわりに広がる「場
」を探るのが写真を撮る面白さだと私は思う
からだ。それが他者にまでじわじわと波及し
てゆくのが写真の力だろう。つまり、写真家
が自由に撮り続ける覚悟を決めてしまえば、
軋むような辛さを抱えながら撮り続ける写真
が、いつのまにか意外な真実を語り始める。
それは「もうひとりの私」との対話と言って
もいい。私がどこで浮かばれるのかまるで判
らないのが心もとないけれど、これが写真の
一番の快楽だという気がする。そして、それ
は他者には軽妙な遊びに見えるらしいのが何
とも不思議である。
だって、私だって驚くんですよ。「東京光
画館」を「軽くて良い」というひとが大勢い
るらしいんだから。メンバーは全員、決して
「軽い」人間ではないのだ。隆明・ばなな父
娘が自ら言う「業」を抱えた人間だと思う。
要するにみんなエゴイストなんですね。まと
もな写真家はみんなそうだと思うけれど、心
優しいエゴイストです。
…話を戻すと、いつの日か私も吉本隆明の
ような父親になりたいと思う。この父娘の発
言を追ってみると、その軋むような家庭がい
かに細やかな愛情に満たされていたかという
ことがよく分かる。私がそれに憧れてしまう
のは、私の父もいくぶん吉本隆明に似た育て
方を私にしてくれたような気がするからだろ
う。私が吉本隆明の本を読んでいるのを見る
たびに「たいしたもんだ」と言ってくれたの
も不思議なものである。ぶっきらぼうで、い
くぶん変わっていて、そして細やかな愛情を
もって私を見守ってくれたことに感謝する他
はない。
最後につけ加えておきたいことがある。
私の奥に隠されている柔軟な無意識を信頼
できるようになれれば、もっと恐れることな
く生きられるのではないか、と私は憧れてい
る。しかし、「記憶」がそれを妨げている。
さりげない写真のような何でもない記憶が私
を苦しめ続けている。それは言葉ではなくて
、道端の景色のような何の意味も無い断片で
ある。彼らが私に「俺を忘れることができる
のかい」としつこく問いかけてくるのだ。そ
れが私をたまらなく恐れさせる。そんなつま
らない記憶を無意識の奥に葬り去ることがで
きないのはどうしてなのだろうか。
これは、吉本隆明・吉本ばなな父娘の著作
から読み取った私自身の最大の問題なのであ
る。それは、私が写真を撮り続けている理由
ともどこかでつながっているはずだ。
もしかしたら、「記憶」という幻想から自
由になるために、ひとは歳を重ねて生き続け
る必要があるのかもしれない。それが私の「
場」なのだろうか。
さらに蛇足。南伸坊の名著「哲学的」(後
に「笑う哲学」と改題)は、もしかしたら「
共同幻想論」のパロディーではないのだろう
か。「哲学的」は「恋愛論」から始まって「
変態論」、「死骸論」、「停電論」等々を経
て「大衆論」で終わる。「共同幻想論」は「
禁制論」から始まって「起源論」で終わる。
ふたりが言っていることもどこかしら通底し
ているような気もします。両方持っているひ
とは比べてみて下さい。