展覧会の絵、ではなくて音楽

昨年の個展「パリ/フランス」を開く折り 、私は写真のことよりも、会場でどんな音楽 をかけようか、そんなことばかり考えていた ような気がする。
 展示するモノクロ写真のプリント作業はず っと前に済ませて、あとは余白のカットとス ポッティングをするだけになっていたし、カ ラー写真のプリントをどれにするかというこ とは、行きつけの写真店を訪れる前の日にな ってから決めていた。そして、どのプリント をどんなふうに組み合わせて展示するか、と いうことは、額に入れた数枚の写真を別にす れば、飾りつけの当日にその場で決めながら 作業していった。我ながらそれがとてもうま くいったと思うし、その作業は本当に楽しか った。
 その楽しみを損ないたくなかったので、当 日まで私はマイルス・デイヴィスの「レコー ディングは一回で決める」という名言を引き 合いに出して、展示のことを具体的に考えて はいなかったと思う。会場を広く使って、知 らないひとでも入りやすいようにしよう、と 決めていただけで、あとは単にわくわくして いただけだった。作品の総数にしても、「ア サヒカメラ」の案内には「合計七十点を展示 」と載せてもらったし、展覧会初日の取材で も、何枚あるか分からないのでここで数えて もらえますか、と答えたら「約八十点を展示 」となった。しかし、最終日に私自身で数え てみたら全部で百二点もあった。
 そんなわけで、私は飾りつけの前日まで、 案内状と音楽のことばかり考えていたような 気がする。
 以前、写真展の会場でお客さんを待ちなが らマイルス・デイヴィスの「カインド オブ  ブルー」を聴くのが心地よい、と私は書い たことがあったけれど、彼の鋭いトランペッ トは今回はあまり居心地がよくないような気 がして、実際にそれをかけてみてもそのとお りだった。代わりに「クリフォード・ブラウ ン ウイズ ストリングス」がとてもよかっ た。ふくよかなトランペット、アドリブの無 いゆったりしたバラード、甘美な弦楽器、ぼ んやり写真をながめるのにとても良い音楽だ った。
 会場にはミシェル・ペトルチアーニのお墓 の写真も展示したので、彼のヴィレッジ・ヴ ァンガードでのライヴ盤、深いところから湧 き上がってくるようなピアノの音色、力がこ もって、しかも抑制がきいた長いソロ、それ が醒めたまま聴き手を引きこんでゆくようで 、これも写真によく合った。
 他にローリング・ストーンズのライヴ盤と か、明田川荘之のフィンランド録音(ピアノ が壊れそうな凄い音楽)とか、ルビンシュタ インが弾くラフマニノフの「パガニーニ ラ プソディ」とか、井上陽水のベスト盤とか、 寺井尚子のライヴ盤を繰り返しよく聴いてい た。この選曲はお客さんにも気に入ってもら えたと思う。その甲斐もあって、のんびり写 真を楽しんでもらえたようでとても嬉しかっ た。禁酒禁煙のギャラリーだったので、お客 さんにはウーロン茶やジャスミン茶を飲みな がら、差し入れのお菓子をつまんでくつろい でもらった。これが楽しいから展覧会はやめ られないのだと思う。
 その中で、展覧会の三か月くらい前に、私 はどういうわけかパブロ・カザルスが弾くバ ッハの無伴奏チェロ組曲を聴きたくなって、 二枚組のCDを買い求めた。それを耳にした ことはそれまで一度も無かったけれど、録音 がかなり古いことは何となく知っていたので 、その古さが写真によく合いそうな気がした のだった。
 一体どうしてカザルスが聴きたくなったの かまるで分からない。以前、友人からカザル スのピアノ・トリオのCDをもらったことが あるけれど、それ以外に私はカザルスのこと なんて何も知らない。ずっと以前、「その年 、三人のパブロが死んだ」という文で始まる 五木寛之の小説があったと思うけれど、私は それを読んでいないし、結局、カザルスとピ カソとネルーダが同じ年に、それぞれの長い 人生を終えた、ということだけが私の記憶に 残った。
 で、買い求めた無伴奏チェロ組曲を聴いて みると、その録音の古さはまさに私の好みだ ったけれど、演奏の武骨さが意外な感じがし た。友人にもらったピアノ・トリオでのカザ ルスは流麗なテクニシャンというふうに聞こ えたのに、とても同じ音楽家の演奏には思え ない。それでも、展覧会でもそれを終えてか らも私はこの録音をよく聴いている。その中 で一番有名な、冒頭の「前奏曲」のメロディ だけは以前どこかで聞いた記憶があった。た だ、時折私の頭の中でそのメロディがグレン ・グールドの弾くバッハの「トッカータ」と ごっちゃになってしまうことがよくある。チ ェロとピアノを混同してしまうのだからお粗 末な話ではある。
 それにしても、この「無伴奏チェロ組曲」 は飽きない。聞き流してもよいし、じっと耳 をかたむけてもよい。その演奏に自己陶酔的 なところは全く無い。何かを取り繕うさもし さも無い。それは巨匠だけに可能なことなの かもしれない。演奏が武骨であるだけに、あ る部分では流麗に歌っているように聞こえる し、ある部分ではまるで立ち止まって考えこ んでいるように聞こえる。それは歓喜に沸い ているのかもしれないし、深い悲しみに沈ん でいるのかもしれない。世界一のマイルス・ デイヴィス・フリークと言っていい中山康樹 氏が、マイルスの代表作のひとつ「ビッチェ ズ・ブリュー」について「…ここで表現され ている以上に深い歓喜、悲哀、孤独はこの世 になく、…」と書いておられるけれど、それ はもしかしたらここにもあてはまるのかもし れない。
 「ビッチェズ・ブリュー」はマイルス・デ イヴィス以下、総勢十三人が織りなす音楽絵 巻といったおもむきがあるけれど、私にはそ れは孤独の中で叫ぶひとりの人間の声である ように聞こえてくる。逆にカザルスの弾く無 伴奏チェロ組曲は、まるで巨大なオーケスト ラがうなっているような印象がある。たった ひとりの音楽家が、たったひとつの楽器から 紡ぎ出している音楽とはとても思えない。
 その、「三人のパブロ」のうち、私は残念 ながらネルーダの詩をまだ読んだことがない のだけれど、この三人の芸術家はきっと「別 格」なのだな、ということは何となく想像が つくようになった。だから、こんな比較をす るのは意味のあることではないのだろうけれ ど、「無伴奏チェロ組曲」でのカザルスの演 奏は、ジャズのベーシストで言えば誰に一番 近いのだろう、と私は考えてみたりする。関 係無い話だけれど、デューク・エリントンは マイルス・デイヴィスの生き方をピカソに例 えていたことがあったし、エリントンもマイ ルスも玄人はだしの絵の名手であった。
 話を戻すと、そのマイルス・デイヴィス・ クインテットのレギュラー・ベーシストだっ たポール・チェンバースやロン・カーターの ような流麗なタイプは、ここでのカザルスに 縁があるようには思えない。パーシー・ヒー スやレイ・ブラウンのような重厚な名脇役と も違うと思う。スコット・ラファロやチャー ルス・ミンガスのようにベーシストが主役に なってバンドをぐいぐい引っ張ってゆくタイ プとも違うだろう。ゲイリー・ピーコックや デイヴ・ホランドのような魔術的なサポート を聴かせるベーシストは彼らよりもやや近い だろうか。
 そう言えば、天才ピアニスト、キース・ジ ャレットがクラシックのオーケストラをバッ クにサックスのヤン・ガルバレク、ベースの チャーリー・ヘイデンと吹き込んだ「ARB OUR ZENA」(タイトルの意味がよく 分からない)というアルバムがあるが、そこ で全員が乗りに乗って聴き手を懐かしさの中 に誘う名曲「ソラーラ・マーチ」には「パブ ロ・カザルスと太陽に捧げる」という副題が ついていた。吹き込みは彼の死後である。こ の演奏が私は大好きだけれど、それが「無伴 奏チェロ組曲」でのカザルスとリンクしてい るのかどうか、私には分からない。
 あれこれ書いてかえってわけが分からなく なってしまったけれど、結局、ジョン・コル トレーン・カルテットのレギュラー・ベーシ ストだったジミー・ギャリソンがここでのカ ザルスに一番近いように私は思う。
 私はコルトレーンの音楽の良い理解者では ないので、彼のアルバムをたくさん聴いたわ けではないけれど、代表作のひとつ「至上の 愛」ではギャリソンの長いソロが聴ける。コ ルトレーンのテナーサックスが終わり、マッ コイ・タイナーのピアノもエルヴィン・ジョ ーンズのドラムスも鳴りやんだ長い沈黙の中 で、ギャリソンがたったひとりでベースを弾 き続ける。弓弾きではなくて、武骨なピチカ ートで何かを語り続けてゆく。それが私はと ても好きだ。
 バラード集「クレッセント」では、コルト レーンやマッコイ以上に悲しいギャリソンの 長いソロが聴ける。また、ピアニストのウォ ルター・ビショップ・ジュニアの名盤「スピ ーク・ロウ」では、重厚に陽気にスイングす るギャリソンが聴ける。ここで彼の弓弾きの ソロが聴ける名曲「オン・グリーン・ドルフ ィン・ストリート」がとても素敵だ。
 彼のボスであったコルトレーンの宗教的な 思想というものに私は興味が持てないけれど 、そのカルテットの中で、ギャリソンはコル トレーンの影武者のような役割だった、とい う意見があったのを私は憶えている。要する に、マッコイとエルヴィンは咆哮するコルト レーンを追いかける最高の伴奏者だったけれ ど、コルトレーンが一番言いたかったことを 言ったのは、実は沈黙の中で語り続けるギャ リソンのベースだった、という聴き方だと思 う。
 ジミー・ギャリソンはコルトレーンほど品 行方正ではなかったらしいけれど、マッコイ やエルヴィンがバンドを去っても、彼だけは 最後までコルトレーンをサポートし続けた。 それは影武者の名にふさわしい活躍だったの かもしれない。
 結局、カザルスのチェロからギャリソンの ベースを連想するのは見当違いなのかもしれ ないけれど、それは私の音楽を聴く楽しみの ひとつになりそうな気がする。沈黙の中で、 何かを語るように、たったひとりで武骨なソ ロを弾き続ける、それが似合うベーシストは ギャリソンの他に考えられないから。
 ギャリソンがエルヴィンと組んだ「プッテ ィン イット トゥゲザー」が今秋にも再発 されるようなので、それを楽しみに待ってい たい。
 最後に蛇足ながら、「無伴奏チェロ組曲」 の解説によるとカザルスはなんと八十歳の時 に、教え子だった二十歳の女の子と結婚して いる。そして、九十六歳で亡くなるまでの十 六年を添い遂げた。それが彼の初めての結婚 だったのかどうか私は知らないけれど、彼女 に見守られながらバッハを弾き続けるカザル ス。「私はバッハに神を見る」と彼は語った そうだ。ピカソやネルーダ同様、波瀾に富ん だ生涯の終わりにたどり着いたそんな「清福 」を私は想像してみる。
 ところで、天才ゲーテも七十代なかばにな って十九歳の女の子に恋をして結婚を考えて いたというけれど、それを果たせないままに 彼は死んでしまった。であれば、ゲーテより カザルスの方が偉いのだろうか、と私はくだ らない想像をしている。



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