私の「死の壁」

「死の壁」の著者である養老孟司さんは、 私的な思い出をあまり語らないひとだと私は 思うけれど、様々な機会に何度も口にされて いるお話がひとつある。
 養老さんは四歳でお父様と死別されたとい う。養老さんの年齢から考えると、それは太 平洋戦争の開戦直前のことで、死因は結核だ ったそうだ。お父様の臨終の床で、誰かに「 お父さんにさよならを言いなさい」と促され たけれど、養老さんは何も口にすることがで きずにお父様を送ってしまった。そして生長 した養老さんは、あいさつができない少年に なってしまった。
 それは養老さんが四十歳に手が届く頃まで 続いたそうだけれど、ある日突然、自分にあ いさつができないのはお父様にお別れを言え なかったせいだと気がついた。父に言えなか ったあいさつを他人に言えるはずがない、あ るいはあいさつをしない限り、父は私の中で 生き続けている…それに気がついた時、養老 さんは地下鉄の車内でとめどなく涙を流され たという。その時、私は父が死んだことをよ うやく認めることができたのだ、と養老さん は続けている。
 いいお話だなあ、と私も思うけれど、以前 ラジオに出ていた養老さんが、ロックに興味 が無いのにビートルズの「レット・イット・ ビー」をリクエストされていたのをなぜか思 い出してしまう。
 その大切な思い出から養老さんが続けて語 られるのは、人間の死には三種類、つまり一 人称(私)の死、二人称(親しい間柄)の死 、三人称(他人)の死がある、というお話で ある。「私」の死というのは哲学者がよく指 摘するように、体験はできてもそれを語るこ とはできない。誰にとっても、自分自身の死 は謎であり続ける。だから、一番身近な死は 二人称の死なのだ、ということになる。
 私が最初にこのお話を読んだ時、実はかな り異様に思ったのを憶えている。「私」の死 は最も切実なことのはずで、それが二人称の 死と並べて語られることに納得がいかなかっ たのだ。自分の死しか考えることができなか ったその頃の私は、今思えば未熟な青年でし かなかったわけで、そんな私が折りに触れて えらそうなことを言っていたかと思うと冷や 汗が出る思いがする。それでも、これまで他 人をあやめることもなくこうして生きてこら れたのは、やはり大いなるもの、そしてたく さんのひとびとの恩寵と言うほかないのだろ う。
 「私」の死については「死ねば死にきり」 という言葉が好き、と吉本隆明が言っている けれど、私もそう言えるように生きてゆけれ ば、と思う。死後にはこの世に良い想い出を たくさん残すようにして、私自身の来世とか 輪廻とかややこしいことはなるべく考えたく はない。
 ところで、「死の壁」を読んで、最近の養 老さんの考えは南伸坊の思想に似てきたな、 という印象を私は受けた。その南さんも幼い 頃、父の臨終に立ち会った経験を書いていた ことがあった。物心がつき始めた幼児は皆そ うなのかもしれないけれど、南さんも養老さ んもずいぶん克明にそれぞれの父の死を見つ めていたように私は思った。このふたりはそ の後、出会うべくして出会い、南さんは養老 さんの「蛇の足の解剖学」の一番弟子になっ た。
 養老さんの「この人はただの人で、要する にもののわかった人である」という南さんに 対する言葉が私はとても好きだ。ふたりの共 著「解剖学個人授業」の「補講」を読んでも らえばこれは全部書いてあることだけれど、 余談ながら、日本の「組織の論理」から結局 落ちこぼれてしまった私も「ただの人」に戻 ってしまった気がする。
 このふたりはそれぞれ別々の場所で、若い 頃に身内が亡くなって死体と対面することは 人間形成に大事な影響を及ぼす、と言ってい た。そう言えばずっと以前、私も祖母の死を 見ている。それを書いておこうと思う。それ こそが私の「死の壁」だと思うからだ。
 父方の祖母が亡くなったのは私が山形市に 住んでいた六歳の時で、盛岡市の実家でリュ ーマチのためにずっと寝たきりだった祖母に ついて、はっきりした思い出は私には無い。 しかし、葬儀の後、焼き場から出てきた祖母 の遺骨が、全く原形をとどめることなく粉々 に散乱していたのをはっきり憶えている。そ のとなりで、一緒に焼かれた遺品のラジオだ けがいくらか形をとどめていた。「お骨を拾 ってあげなさい」と誰かに促されても何を拾 えば良いのか分からず私は途方に暮れていた 。「病気と薬のせいで骨が残らなかったんだ 」とおじさんが口にしていたけれど、そのせ いで祖母は手応えを残さずに幼い私の前から 消えてしまったような気がする。今思えば、 この経験は私の人格にも何かしら影響を残し ているのかもしれない。結局、形のある骸骨 を私は母方の祖母が亡くなる二十歳過ぎまで 見ることはなかった。
 私の祖父は、ふたりとも私が生まれる前に 亡くなっているので私は何も知らない。そし て、母方の祖母は私の二十三歳の誕生日、つ まり昭和最後の元日に盛岡市で亡くなった。 数日前に病院にお見舞いに行ったのが最後に なってしまった。私の両親と同居したことは なかったけれど、祖母は私の乳母のような存 在だった。あの元日の夜、盛岡市の実家で祖 母の死を知らされた時、闇の中でしんしんと 雪が降り始めたのは忘れられない。ひとが死 んでゆくのに何てふさわしい夜なんだろう、 と私は悲しみを感じる前に感動してしまって いたのだった。
 その電話を受けて、私はヤケクソになって お釜の中にあったご飯をお腹に詰め込んでか ら近所の祖母宅へ弟とともに駆けつけた。や がて病院から祖母の遺体が運ばれてきたけれ ど、それを目にしたとたん、私の両目から、 涙が音を立てて零れ落ちた。本当に、ぼろぼ ろぼろと、大きな音とともにそれは流れ落ち た。あの時以外に私はそんな泣き方をしたこ とはない。しかし、嗚咽がこみ上げてきたわ けではなくて、そのままずっと私は祖母の表 情を見つめていた。目を離すことができなか ったのだ。
 その時の祖母の死に顔は今でもよく憶えて いる。魂というものが本当にあるのならば、 それが今しがたすうっと抜けていった、そん な表情だったと思う。祖母は八十七年の人生 を生き抜いて天に帰っていった、それが本当 によく分かった。
 死者の気配、というものを私は初めて感じ たのかもしれない。それは決して恐ろしいも のでも不気味なものでもないけれど、日常と はかけ離れた特別なものだ、ということを私 は学んだ。死者の住む場所は確かにある。祖 母の魂は、家の上をゆっくり旋回してからそ こへ向かっていったのだった。
 その後、私が三十代になってからのことだ けれど、初めて肉親以外のお墓を訪れたのは 、鳥取市で小説家尾崎翠のお墓参りをした時 だった。町はずれの小さなお寺の一角にそれ はあって、「ここなら静かに眠れますね」と 語りかけたとたんに私はひとすじ涙を流して しまった。それは本当に静かで穏やかな場所 だったのだ。彼女の人生と作品にそれはとて もふさわしいように思えた。
 また、パリのペール・ラシェーズ墓地でピ アニスト、ミシェル・ペトルチアーニのお墓 参りをした時は、つっ立ったまま二十分くら い私は泣きに泣いてしまった。
 先日訪れた高野山では、弘法大師の奥の院 に向かう途中で明智光秀と織田信長のお墓参 りをした。そこで私は別に泣いたりはしなか ったけれど、光秀のお墓は苔むしていて意外 に穏やかな雰囲気があった。言葉にしてみれ ば、この世で仕事をなし遂げてあの世に旅立 っていった、といった印象で、彼は決して乱 暴な逆賊ではない、と私は思った。しかし、 信長のお墓は今もピリピリした空気に満ちて いて、かんしゃく持ちの天才政治家の気配が ありありと迫ってきたのに私は驚いた。
 そして、弘法大師、つまり天才空海が今も 生きているという奥の院では写真撮影が禁止 されているのだけれど、そこで手を合わせて いた時に浮かんできた言葉は私にとって恩寵 としか言いようのない大切なものだった。そ れは神秘体験なんかでは全くなくて、静かで 穏やかな生命の力とでも言うしかなかったと 思う。その名のとおり、空と海の力なのかも しれない。そんな経験をしたのは私は初めて だった。
 話を戻すと、いつのまにか日本は死者の世 界と生者の世界をはっきり峻別する社会にな ってしまった、と養老さんはことあるごとに 語っておられるけれど、それはまさに生者の 勝手な都合でしかなくて、このふたつの世界 はもっと複雑に絡み合ってともに生き続けて いる、と考える方が良いような気がする。安 易にこのふたつを行き来することはできない けれど、折りに触れて死者の世界は生命を持 ってこの世界を触発する。そんな風に私は考 えておきたい。以前書いたように、死者はこ の世界で生者とともに穏やかに生き続ける、 というマダガスカルのような国もあるのだか ら。
 ところで、今まで親しい友人や弟に言って きたことだけれど、私の遺骨は、そのほんの 一部でもかまわないから、庭に撒いて、そこ にお花の種を蒔いてほしいと私は思っている 。いつのことになるか分からないけれど、死 んだら物理的にも精神的にも私はお花になっ てから死者の世界に旅立ちたい。かつて植物 栄養学の研究をしていた私にとって、それは 何よりもふさわしい「葬儀」だと思うし、私 の死体は物理的にも無駄になることなくお花 の肥料になって生態系の循環に帰ってゆくこ とになるわけである。イルカ(歌手)の「い つか冷たい雨が」という歌に「私が土になっ たら お花達よ そこから咲いて下さい」と いう詞があって、そこからこれを思いついた のです。養老さんよりもっと歳をとってから 、私はそこにたどり着きたいと思う。



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