スピリチュアル・ユニティ

昨年、伝説のサックス奏者アルバート・ア イラーの未発表演奏を集めたCDセットが海 外で発売された。これは、六十年代初め、ア イラーが兵役の関係でヨーロッパに滞在して いた折りに吹き込まれた「ファースト・レコ ーディング」前後の演奏から、七十年に謎の 死を遂げる直前に残された録音までをカバー するお値打ち物であることは間違いない。し かし、私は時々訪れるタワーレコードでその ジャケットをしげしげとながめているだけで まだ購入していない。
 早くモノを押さえておかないと後悔するぞ 、という内心の声は聞こえてくるのだが、今 の私にはアイラーの演奏の巨大な集積は何だ か恐ろしいような気がしてしまう。国内盤が 出てくれないかしら、とか、分売できないの かな、と思うけれど、十五年くらい前に買っ たローランド・カークのボックスセットも結 局分売はされなかったから、これはやはり早 めに押さえておくべきなのだろう。その中で 私が何より聴いてみたいのは、セシル・テイ ラーとの共演だ。昔、スイングジャーナル誌 の別冊で、その録音が存在することは知って いたけれど、これまでそれが発表されたこと はなかった。雨だれのように理知的で美しい テイラーのピアノに、暖かで、ふくよかで、 耳をつんざくアイラーのサックスが重なった らどんなに凄いだろう、と私は昔からぞくぞ くしながら想像してきたのだ。
 アイラーの音楽の魅力については、私はこ れまで何回か書いたことがあるのでここでそ れを繰り返すことはしない。ただ、それは中 上健次が書いたように「破壊せよ」というメ ッセージがこめられたものではないし、小難 しい前衛ジャズというわけでもない。私はそ んなことを言い出す連中の気が知れない。こ れは、ふくよかに楽器を鳴らし切った暖かい 音楽であり、生命の原型を思わせる懐かしい 声である。あらゆる感情をはらんだ、激しく てやさしい「魂の叫び」だろうか。また、そ こには大声で調子はずれの歌を歌う時のよう なユーモアと安堵感もある。重苦しい音楽で はないのだ。
 私はセシル・テイラーの録音を楽しめるよ うになるまでずいぶん時間がかかってしまっ たけれど、アイラーの録音は最初に聴いた時 から大好きになった。二十代の頃、私はつら いことがある度に彼の録音を聴いた。ちょっ と恥ずかしいけれど、彼のアルバム「スピリ チュアル・ユニティ」を聴きながら畳をかき むしって泣いたこともある。けれど、演奏の 激しさとは裏腹に、どんな時でも彼の音楽は 私を温かくつつんで生きる勇気を与えてくれ た。彼の音楽は誰にも伝えられない苦しみや 悲しみをやさしく受け止めてくれた。彼の音 楽はその涙をぬぐってくれたうえで、私を再 びこの現実にそっと送り帰してくれた。生命 の讃歌、私にとってそんな音楽家は他にミシ ェル・ペトルチアーニしかいない。
 しかし、不思議なことにアルバート・アイ ラーという音楽家の人生について詳しいこと を私は何も知らない。日本語で書かれた彼の 伝記は無いし、CDの解説を読んでも伝説ば かりが先行してアイラー本人についての情報 はほとんど見当たらない。彼が高校時代にゴ ルフが得意の複雑な育ちの黒人だった、とい う青木和富氏の記述と、最晩年(といっても 三十代半ばだが)彼にインタビューした児山 紀芳氏の回想、そしてサックス奏者の梅津和 時さんが十五年前にスイングジャーナル誌の 別冊に書いておられた文章、私にとってそれ くらいしか彼について知るところは無い。た だ、「マイ・ネーム・イズ・アルバート・ア イラー」というアルバムの冒頭に、彼のイン タビューが収録されている。その内容をうま くたどることが私にはできないけれど、その 朴訥で暖かい声から彼の人柄を感じとること はできる。その印象は彼のポートレートにも 通じるものだと思う。
 その程度の情報しかもたらされない音楽家 の音楽が、国も人種も世代も違う人間を力強 く暖かく支えてくれる、というのはとても素 敵なことだと私は思う。しかし、そんなわけ で残念ながら私はアルバート・アイラーとい う音楽家について多くを書く資格は無い。
 ただ、これはきっと誰も指摘していないこ とだと思うけれど、アイラーが「ファースト ・レコーディング」を吹き込む直前、つまり 彼が六十年代初めにスウェーデンのストック ホルムに滞在していた頃、ジョン・コルトレ ーンを擁したマイルス・デイヴィス・クイン テットがそこで公演を行っている。それはコ ルトレーンがマイルスの許を去る直前のこと で、私はそのCDを持っているけれど、そこ でのコルトレーンの演奏は、すでに当時のマ イルスとは相いれない凄まじいものである。 たとえて言えば、マイルスの許で名曲「ジャ イアント・ステップス」のアドリブを延々と 繰り広げているようなもので、それはもはや ハードバップでもモードジャズでもなくて、 後年の彼を先取りしたフリージャズと呼ぶの が適切であるような気がする。
 私の勝手な想像だけど、アイラーはこの公 演を聴いていたのではないだろうか。この演 奏の拍手と歓声の中に彼がいるのではないだ ろうか。ここでのコルトレーンの凄まじい演 奏は、そのままアイラー初期の演奏に引き継 がれているように私には聴こえる。そしてア イラーは、コルトレーンに欠けている暖かみ とユーモアをそこに付け加えている。そのこ とが、アイラーの音楽をコルトレーンのそれ よりもはるかに普遍的なものにしていると私 は思う。
 「ファースト・レコーディング」以前のア イラーの演奏ははるかに常識的なものだった という証言があったし、今回のボックスセッ トにもそれを裏付ける録音が含まれているら しい。要するに、コルトレーンの凄まじい演 奏がアイラーの原形質のようなものを明るみ の下に引きずり出した、という仮説を私は考 えてみる。アイラーの演奏を、中世ドイツで 百三十人の子どもを誘い出して消し去ったハ ーメルンの笛吹き男にたとえた文章を私は読 んだことがあるけれど、アイラー自身もそれ に似た精神的な危機を何度も繰り返していた のかもしれない。彼の音楽にはそんな異様な 経験を思わせるところが確かにある。だから こそ、それは遠く離れた他者に衝撃を与え、 温かくつつみこんでゆくことができる。

そんなことを考えていると、私は「マルド ロールの歌」を遺して夭折した詩人、ロート レアモン伯爵ことイジドール・デュカスのこ とを思い出す。彼について書き始めると長く なるので、それは別の機会に譲ることにする けれど、その作品の異様な衝撃、謎の多い人 生、強烈にひとを魅惑する力、といったもの はもしかしたらアルバート・アイラーに似て いるのかもしれない、と思うことがある。
 アイラーは一九七十年十一月二十五日に謎 の死を遂げている。その日、ニューヨークの イーストリヴァーに彼の死体が浮いていたの だそうだ。この、一九七十年十一月二十五日 は三島由紀夫が自衛隊の駐屯地に乗りこんで 割腹自殺した日でもあるので、アイラーの死 はそれとからめて語られることが多い。時代 の変わり目の決定的なしるし、というわけで ある。
 しかし、私はどういうわけか三島由紀夫に は全く興味が持てないし、六十年代という時 代にからめてアイラーを聴くことにも興味が 無い。村上春樹の「羊をめぐる冒険」の冒頭 に、一九七十年十一月二十五日のけだるい描 写が出てくるけれど、時代とは実際にはそん なものなのだろうという気がする。私はずっ と、この日付は村上春樹の個人的な思い出の 日なのだろうと思っていたくらいである。
 実は、この百年と一日前、一八七十年十一 月二十四日はロートレアモン/デュカスがパ リの貧しい自室で謎の死を遂げた日である。 当時のパリは普仏戦争のために孤立し、厳し い冬を迎えようとしていた頃で、市場で食用 のためにネズミが売られたり、暖をとる薪も 無い中で疫病が流行っていたような悲惨なあ りさまだったらしい。その悲惨さは、百年後 のニューヨークや東京とは比べられないもの であっただろう。
 ロートレアモン/デュカスの死因が自殺で なかったことは近年の調査によって判明した ようだが、その死因は餓死か病死だろうと推 測されるだけで今も特定されてはいない。前 年に主著「マルドロールの歌」の出版が挫折 した後、彼は一八七十年の四月と六月に箴言 集「ポエジー」を出版する。その後、確実な 足取りはつかめないまま、十一月二十四日の 死亡証明書に一切がなだれこんでゆく。適切 な比較ではないのかもしれないけれど、百年 後の七月、アイラーは南フランスでいわゆる 「ラスト・レコーディング」を残し、十一月 二十五日、ニューヨークのイーストリヴァー で死体となって発見される。ロートレアモン /デュカスは享年二十四歳、アイラーは享年 三十四歳。時代や政治に翻弄されている印象 が強い三島の死を持ち出すよりも、この、百 年と一日の「スピリチュアル・ユニティ」の 方がよほど鮮烈であるように私は思う。
 アイラーの死の真相については、彼が信頼 したベーシスト、ヘンリー・グライムスが何 かを知っているのではないか、という記事を 私は読んだ記憶がある。映画「真夏の夜のジ ャズ」で、セロニアス・モンク・トリオのベ ーシスト、と言えば彼を思い出すひとも多い かもしれない。そのグライムスは七十年代以 降、行方をくらましてしまって、一時は死亡 説まで取り沙汰されていたらしいけれど、近 年、地方の小さなライヴハウスで演奏を続け ていることが確認された、とのことである。 近々、三十年ぶりのアルバムが出るというこ とだけれど、どうも謎のひとの周りには謎の ひとが集まるようで、私としてはため息をつ くしかないのだが、もしかしたら、これによ ってアイラーの伝記に新たな事実がつけ加え られるのかもしれない。ロートレアモン/デ ュカスの死から五十年以上が経って、年老い た友人から遠い日の彼の消息が語られたよう に。
 ただ、アイラーの死因もロートレアモン/ デュカス同様に単純なもので、たとえば何の 関わりもない通り魔に殺された、という程度 のものではなかったのか、と私は想像してい る。ふたりとも、誰かに追われて殺されるよ うなひとではなかったと思う。キング牧師と もジョン・レノンとも違うと思う。

ここで話はまた変わるのだが、ロートレア モン/デュカスの死からちょうど七十四年後 の一九四四年十一月二十四日は、ダダイスト を自称した文人にして粋人、辻潤が東京のア パートの一室で孤独のうちに餓死した日なの である。彼は、伊藤野枝との恋愛のため教職 を追われ、ふたりの息子をもうけながらも彼 女と別れ、伊藤野枝が甘粕正彦に虐殺された 後は定職につくこともなくパリに足を伸ばし たり、国内を尺八片手に放浪を続け、ついに 太平洋戦争末期に倒れることになる。死に至 る経緯は全く異なるとはいえ、その死の状況 はロートレアモン/デュカスによく似ている 。辻潤は享年六十歳。
 彼の文章も私は大好きなのだけれど、辻潤 は日本でいちはやくロートレアモン/デュカ スに注目したひとであったことはあまり知ら れていないようだ。
 辻潤がいつ、どのようにしてロートレアモ ン/デュカスを知ったのか分からないが、彼 がパリに旅立った一九二八年に、日本で初め て「マルドロールの歌」が紹介されている。 フランスでそれが大きく注目され始めて数年 後のことである。しかし、ロートレアモンは 当時盛んになっていたシュルレアリスムとか らめて語られることが多いから、それと少な からぬ因縁を持つダダイストを自称した辻潤 は、パリ滞在中にその原書を手に取る機会が あったのかもしれない。帰国後の一九二九年 、萩原朔太郎について書いた文章の中で彼は ロートレアモンに言及している。全く無名だ った生前の宮沢賢治に注目したのも辻潤だっ たけれど、この、風来坊の自由人のアンテナ は極めてしなやかで鋭かったのだと私は思う 。これが、ロートレアモン/デュカスと同月 同日で似た死に方をした「スピリチュアル・ ユニティ(精神的な調和)」なのかもしれな い。

例によってとりとめのない文章になったけ れど、最後に蛇足を付け加えるなら、アンド レ・ブルトンが主導したシュルレアリスムは ロートレアモンを大きく取り上げはしたもの の、彼を許し難い誤解の中に導きもしたわけ で、結局誰もその責任を取らなかったのでは ないか、と私には思える。シュルレアリスム は第一次世界大戦という傷を負って始まった ものの、結局それはお金持ちのお坊っちゃま たちのお遊びで、ロートレアモン/デュカス とは何の関係も無いセクト争いだったように 私には見えてしまう。ブルトンは仲間たちを 次々に破門して結局孤立してしまうのだが、 そのメンバーの中で私が好きなのは、ロート レアモン/デュカスについて誤解をまき散ら しはしたものの、自身は自由な風来坊であり 続けたフィリップ・スーポーと、彼らを見守 り続けた写真家マン・レイである。
 シュルレアリスムのお坊っちゃまたちは、 女性に対して身勝手な憧れを持つばかりで、 彼女たちを人間として見ることができなかっ た、しかしその唯一の例外がマン・レイだっ た、という文章を私は読んだ記憶があるけれ ど、マン・レイが撮った女性たちを見ると、 それも分かるような気がする。彼はアメリカ からやって来たユダヤ系の移民だった。
 シュルレアリスムが不思議なくらい音楽、 特にジャズに縁が無いのもこれと関係がある のかもしれない。彼らはアメリカ黒人のブル ースに共感することはできなかったわけであ る。結局、彼らには自分たちの無意識に興味 はあっても他者との交感、つまり「スピリチ ュアル・ユニティ」は無かったのだと私は思 っている。
 彼らよりもジョルジュ・バタイユやモーリ ス・ブランショの方がずっとしなやかでやさ しくて、歴史の闇や心の闇をよく知っていた のだと私は感じている。



[ BACK TO MENU ]