そんなことを考えていると、私は「マルド
ロールの歌」を遺して夭折した詩人、ロート
レアモン伯爵ことイジドール・デュカスのこ
とを思い出す。彼について書き始めると長く
なるので、それは別の機会に譲ることにする
けれど、その作品の異様な衝撃、謎の多い人
生、強烈にひとを魅惑する力、といったもの
はもしかしたらアルバート・アイラーに似て
いるのかもしれない、と思うことがある。
アイラーは一九七十年十一月二十五日に謎
の死を遂げている。その日、ニューヨークの
イーストリヴァーに彼の死体が浮いていたの
だそうだ。この、一九七十年十一月二十五日
は三島由紀夫が自衛隊の駐屯地に乗りこんで
割腹自殺した日でもあるので、アイラーの死
はそれとからめて語られることが多い。時代
の変わり目の決定的なしるし、というわけで
ある。
しかし、私はどういうわけか三島由紀夫に
は全く興味が持てないし、六十年代という時
代にからめてアイラーを聴くことにも興味が
無い。村上春樹の「羊をめぐる冒険」の冒頭
に、一九七十年十一月二十五日のけだるい描
写が出てくるけれど、時代とは実際にはそん
なものなのだろうという気がする。私はずっ
と、この日付は村上春樹の個人的な思い出の
日なのだろうと思っていたくらいである。
実は、この百年と一日前、一八七十年十一
月二十四日はロートレアモン/デュカスがパ
リの貧しい自室で謎の死を遂げた日である。
当時のパリは普仏戦争のために孤立し、厳し
い冬を迎えようとしていた頃で、市場で食用
のためにネズミが売られたり、暖をとる薪も
無い中で疫病が流行っていたような悲惨なあ
りさまだったらしい。その悲惨さは、百年後
のニューヨークや東京とは比べられないもの
であっただろう。
ロートレアモン/デュカスの死因が自殺で
なかったことは近年の調査によって判明した
ようだが、その死因は餓死か病死だろうと推
測されるだけで今も特定されてはいない。前
年に主著「マルドロールの歌」の出版が挫折
した後、彼は一八七十年の四月と六月に箴言
集「ポエジー」を出版する。その後、確実な
足取りはつかめないまま、十一月二十四日の
死亡証明書に一切がなだれこんでゆく。適切
な比較ではないのかもしれないけれど、百年
後の七月、アイラーは南フランスでいわゆる
「ラスト・レコーディング」を残し、十一月
二十五日、ニューヨークのイーストリヴァー
で死体となって発見される。ロートレアモン
/デュカスは享年二十四歳、アイラーは享年
三十四歳。時代や政治に翻弄されている印象
が強い三島の死を持ち出すよりも、この、百
年と一日の「スピリチュアル・ユニティ」の
方がよほど鮮烈であるように私は思う。
アイラーの死の真相については、彼が信頼
したベーシスト、ヘンリー・グライムスが何
かを知っているのではないか、という記事を
私は読んだ記憶がある。映画「真夏の夜のジ
ャズ」で、セロニアス・モンク・トリオのベ
ーシスト、と言えば彼を思い出すひとも多い
かもしれない。そのグライムスは七十年代以
降、行方をくらましてしまって、一時は死亡
説まで取り沙汰されていたらしいけれど、近
年、地方の小さなライヴハウスで演奏を続け
ていることが確認された、とのことである。
近々、三十年ぶりのアルバムが出るというこ
とだけれど、どうも謎のひとの周りには謎の
ひとが集まるようで、私としてはため息をつ
くしかないのだが、もしかしたら、これによ
ってアイラーの伝記に新たな事実がつけ加え
られるのかもしれない。ロートレアモン/デ
ュカスの死から五十年以上が経って、年老い
た友人から遠い日の彼の消息が語られたよう
に。
ただ、アイラーの死因もロートレアモン/
デュカス同様に単純なもので、たとえば何の
関わりもない通り魔に殺された、という程度
のものではなかったのか、と私は想像してい
る。ふたりとも、誰かに追われて殺されるよ
うなひとではなかったと思う。キング牧師と
もジョン・レノンとも違うと思う。
ここで話はまた変わるのだが、ロートレア
モン/デュカスの死からちょうど七十四年後
の一九四四年十一月二十四日は、ダダイスト
を自称した文人にして粋人、辻潤が東京のア
パートの一室で孤独のうちに餓死した日なの
である。彼は、伊藤野枝との恋愛のため教職
を追われ、ふたりの息子をもうけながらも彼
女と別れ、伊藤野枝が甘粕正彦に虐殺された
後は定職につくこともなくパリに足を伸ばし
たり、国内を尺八片手に放浪を続け、ついに
太平洋戦争末期に倒れることになる。死に至
る経緯は全く異なるとはいえ、その死の状況
はロートレアモン/デュカスによく似ている
。辻潤は享年六十歳。
彼の文章も私は大好きなのだけれど、辻潤
は日本でいちはやくロートレアモン/デュカ
スに注目したひとであったことはあまり知ら
れていないようだ。
辻潤がいつ、どのようにしてロートレアモ
ン/デュカスを知ったのか分からないが、彼
がパリに旅立った一九二八年に、日本で初め
て「マルドロールの歌」が紹介されている。
フランスでそれが大きく注目され始めて数年
後のことである。しかし、ロートレアモンは
当時盛んになっていたシュルレアリスムとか
らめて語られることが多いから、それと少な
からぬ因縁を持つダダイストを自称した辻潤
は、パリ滞在中にその原書を手に取る機会が
あったのかもしれない。帰国後の一九二九年
、萩原朔太郎について書いた文章の中で彼は
ロートレアモンに言及している。全く無名だ
った生前の宮沢賢治に注目したのも辻潤だっ
たけれど、この、風来坊の自由人のアンテナ
は極めてしなやかで鋭かったのだと私は思う
。これが、ロートレアモン/デュカスと同月
同日で似た死に方をした「スピリチュアル・
ユニティ(精神的な調和)」なのかもしれな
い。
例によってとりとめのない文章になったけ
れど、最後に蛇足を付け加えるなら、アンド
レ・ブルトンが主導したシュルレアリスムは
ロートレアモンを大きく取り上げはしたもの
の、彼を許し難い誤解の中に導きもしたわけ
で、結局誰もその責任を取らなかったのでは
ないか、と私には思える。シュルレアリスム
は第一次世界大戦という傷を負って始まった
ものの、結局それはお金持ちのお坊っちゃま
たちのお遊びで、ロートレアモン/デュカス
とは何の関係も無いセクト争いだったように
私には見えてしまう。ブルトンは仲間たちを
次々に破門して結局孤立してしまうのだが、
そのメンバーの中で私が好きなのは、ロート
レアモン/デュカスについて誤解をまき散ら
しはしたものの、自身は自由な風来坊であり
続けたフィリップ・スーポーと、彼らを見守
り続けた写真家マン・レイである。
シュルレアリスムのお坊っちゃまたちは、
女性に対して身勝手な憧れを持つばかりで、
彼女たちを人間として見ることができなかっ
た、しかしその唯一の例外がマン・レイだっ
た、という文章を私は読んだ記憶があるけれ
ど、マン・レイが撮った女性たちを見ると、
それも分かるような気がする。彼はアメリカ
からやって来たユダヤ系の移民だった。
シュルレアリスムが不思議なくらい音楽、
特にジャズに縁が無いのもこれと関係がある
のかもしれない。彼らはアメリカ黒人のブル
ースに共感することはできなかったわけであ
る。結局、彼らには自分たちの無意識に興味
はあっても他者との交感、つまり「スピリチ
ュアル・ユニティ」は無かったのだと私は思
っている。
彼らよりもジョルジュ・バタイユやモーリ
ス・ブランショの方がずっとしなやかでやさ
しくて、歴史の闇や心の闇をよく知っていた
のだと私は感じている。