神話のような「雪煙をめざして」
先日、松本市の古書店で「雪煙をめざして
」という文庫本を見つけた。著者は登山家の
加藤保男というひとで、本の裏表紙には「三
度目のエベレスト登頂を冬季初登で飾り、下
山中、行方不明となる―。」と記されている
。それは一九八二年暮れのことで、著者はそ
の時三三歳の若さだったそうだ。
私は登山にも山岳写真にも特に興味は無い
のだけれど、この、加藤保男というひとは、
私が初めて所有して今も愛用しているカメラ
、オリンパスOM−1Nのカタログに出てい
たので生前から名前とお顔を知っていたのだ
った。そのカタログは今も私の実家の押入れ
にあるはずである。そこには他にかつての南
極越冬隊長とか、昆虫写真家の栗林慧さんが
登場していたと思う。
その中でも、この加藤さんは冬山登山のフ
ル装備に身を包んで正面を見据えたポートレ
ートがとても美しくて鮮烈な印象を受けた。
このひとは、男が見ても実に凛々しい美男子
だと思う。エベレストの頂上でもOM−1N
は快調だった、とそこで彼は語っていたけれ
ど、その鍛え抜かれて引き締まった身体に小
さくてシンプルなOM−1Nはよく似合って
いた。
私は天体観測から写真に興味を持ったので
、初めてのカメラは機械式のマニュアル機に
しようと考えていた。その頃の私の候補は他
にニコンFMとペンタックスMXで、他にも
たくさんのカタログを集めてあれこれ考えて
みたのだけれど、結局、ひと足先にOM−2
Nを手に入れていた友人の勧めもあって、理
科好きの天文少年に一番アピールしたOM−
1Nに決めた。手によく馴染みそうで、ファ
インダーが大きく見やすくて、露出計が指針
式で分かりやすい。そしてシステムが充実し
ていて、しかもそれがさほど高価でなく、ま
た、シャッターダイヤルがボディ上部でなく
てレンズマウントに付いていたことも大きな
理由だった。それは高校の入学祝いに父にね
だって買ってもらったけれど、今思えば、こ
れは父に買ってもらった一番嬉しい贈り物だ
ったと思う。写真人生の幸せな始まりを助け
てくれた父に改めて感謝したいと思う。
ところで、この「雪煙をめざして」は著者
が最後のエベレストへ出発する直前に書かれ
て出版されている。海外での冬山登山という
のは随分とお金がかかるようなので、その資
金集めという意味もあったのだろう。読み進
んでゆくと、OM−1Nを出したオリンパス
がしばしばそのスポンサーになっていたよう
である。結局、この本が彼の人生を記した最
初で最後の手記になってしまった。
なぜ山に登るのか、という問いに対して、
「そこに山があるからだ」という名言を吐い
た登山家がいたと思うけれど、生命の危険と
無数の苦痛と困難を承知で、なぜ海外まで出
掛けて冬山へ登ろうとするのか、この本を読
み終わっても私にはいまだによく分からない
。それ以上の深い魅力と喜びがあるからなの
だろうな、と想像することしか私にはできな
い。たくさんの先輩たちがそこで亡くなり、
登山中のちょっとした不注意のために自分や
仲間の生命が失われる。たとえ登頂に成功し
て生きて帰ってこれたとしても、凍傷やけが
は日常茶飯事で、不眠や喉の渇きはわざわざ
言い立てるほどのことではない。この、加藤
さんも最初にエベレストに登った折りの後遺
症で足の指を失っている。そして、これは災
害や戦争ではなく、自分の意思でやっている
ことなのである。
この本には著者が撮影した写真は収められ
ていないけれど、著者自身の精悍なポートレ
ートと、そして何よりも簡潔で美しい文章だ
けで充分だと私は思う。このひとは陸上競技
から登山に転じた根っからのスポーツマンで
、文章修業を積んだひとではないのだけれど
、こんなふうに、自分の意思で地獄を生き抜
いて、そこに深い喜びを見いだしたひとは、
なんて素敵な文章を書くんだろう。ほれぼれ
と感嘆するしかない。その、アルプスやヒマ
ラヤの美しい景観の描写は、どんな山岳写真
よりも素晴らしいと思うし、そこにたどりつ
くまでの過酷な登攀の様子も、厳しさの中に
喜びがあふれている。それがおそらく登山の
喜びであって、決して登頂に対する世間的な
名誉といったものがこのひとを動かしていた
のではない、ということは私にも分かる。
そうとすれば、登山家は「そこに山がある
から登るのだ」と言うしかないのだろうし、
人生の全てがそこに重ね合わされてくるのだ
ろう。冒険家は人間嫌いだ、という見解もあ
るけれど、冬山登山というのはチームプレイ
であって、ただの人間嫌いに務まる冒険とは
違う、ということもこの本を読めば分かる。
でも、この本の終わりの部分には、仲間の不
甲斐なさにやや苛立っている著者の気持ちも
感じられるような気がして、それが三三歳と
いう登山家として最後の盛りの時期に、自身
をあえて冬季エベレスト単独登頂に向かわせ
た理由のようにも思えてくる。そして、彼は
OM−1Nとともにエベレストに消えてしま
った。
また、淳朴な美男子にありがちなことなの
かもしれないけれど、このひとは自分を「大
の女嫌い」だったと公言しているし、この本
にも微かな憧れはともかくとして、具体的な
ロマンスの話は全く出てこない。エロスの全
てを天上の別世界に託して、青春の終わりと
ともにそこで生涯を終えてしまった。死者を
過度に美化するつもりは無いけれど、人智を
越えた厳しさと美しさを知ってしまうと、ひ
とはこんなふうに生きるしかないのかもしれ
ない。ユングだったか、研鑽を怠らないひと
は、人生の真の目的を見い出して、それに向
かって一歩を踏み出したところでこの世での
人生は終わる、と言っていたけれど、このひ
とにもそれはあてはまるのだろうか。
私がこの本を見つけた古書店の店主は、こ
のひとの遭難とともに登山というものは終わ
ったのかもしれない、と言っていた。マナス
ルを酸素ボンベ無しで登ったり、エベレスト
をひとりで登ってしまえばもうやることはな
いんですよ、とのことである。著者を責める
つもりは無いけれど、この本を読んでいても
、空になった酸素ボンベを無造作に山に捨て
てしまったり、エベレストの頂上に友人の記
念品を埋めたり、今ではもう許されないこと
が行われていたりする。これは「古き良き時
代」の最後だったのだろうか。エベレストの
頂上付近でさえ今はゴミが多くて、それを正
す「清掃登山」が行われていることは私も知
っている。日本国内でも、休日には大変な数
の登山者が押し寄せるせいで山が荒廃してい
ることは、長野県に住んでいると私にも分か
る。このひとが生きていたらそれをどう思う
だろうか。
私ごときが言うのは僣越きわまりないけれ
ど、「そこに山があるから」登るという答え
が通用する時代は終わってしまったのかもし
れない。私にしてみれば、「山」を「写真」
におき換えてしまえばいい。これからどうす
ればよいか、それは結局これまでどおり、あ
れこれ悩み続けながら、ひとりで決めてゆく
しかないのだろう。
私は自分なりに天上の別世界のことを知っ
ているけれど、そんなふうに、すでに地上を
生き始めた写真家である。これが私の「青春
の終わり」なのかもしれない。そして、この
本のような天上の「神話」と地上の現実との
関係は、またいつか考える機会があるように
思う。その時までこの「雪煙をめざして」は
大事に仕舞っておきたい。私のOM−1Nは
大事に使い続けながら。