ハービー・ハンコックの謎

ハービー・ハンコックの「ザ・ピアノ」と いうアルバムを私は折りにふれて聴き返して いる。彼はキーボード奏者、プロデューサー としてポップミュージックの世界に君臨する 大御所であるけれど、もとはと言えば六十年 代のマイルス・デイヴィス・クインテットの レギュラーとして鳴らした名ピアニストであ る。
 しかし、彼はデビュー以来様々な分野で仕 事を続けながらも、ジャズピアニストとして の活動も決して止めることは無かった。その 全ての仕事が卓越しているものだから、ある いは同時期にデビューしたチック・コリアや キース・ジャレットの音楽が一見「この道ひ とすじ」風に聞こえるものだから、ハービー ・ハンコックの仕事は実力よりもやや軽くみ られてしまうことが多かったようだ。それは 狭量なジャズファンの悪口を一身に受けてし まう立場なのだけれど、ハンコック本人は誠 実な常識人なので、そんなマニアたちの偏見 などどこ吹く風である。素晴らしいことだと 思う。
 それにしても、ハービー・ハンコックとい う音楽家/ピアニストは聴けば聴くほどよく 分からない、謎のひとであるような気がして くる。その音楽が難解であるということでは 全く無い。これほど聴き易くてかっこいい音 楽も無いだろう。だから彼はポップミュージ ックの大御所でもあるわけだが、どんなスタ イルで演奏しようが、彼の音楽は常にクラシ ック音楽の素養に裏打ちされているように聞 こえる。不思議なことに、ポップで派手な作 品ほどその傾向が強く現れてくるような気が する。
 そして、ピアノであろうがキーボードやシ ンセサイザーであろうが、そのタッチは常に 信じられないくらい正確で、他のジャズピア ニストが拠りどころにしている、ゆらぎのあ るあいまいなスイング感が彼の演奏には全く 感じられない。にもかかわらずその音楽が冷 たくならず、予定調和におちいることもなく 楽しげにスイングしているのは本当に不思議 だと思う。
 結局、ハービー・ハンコックというひとは 新しもの好きで多才な上に男前ではあるけれ ど、実は徹底的に几帳面で謙虚な常識人なの ではないか、という気がしてくる。彼のピア ニストとしてのルーツはクラシック音楽にあ るのだろうし、ポップミュージシャンとして のルーツは自身も参加していた七十年代のマ イルス・デイヴィスの音楽にあるのだろう。 それを今聴き比べてみると、ハンコックのポ ップな音楽は派手ではありながら几帳面に構 成されていて、七十年代のマイルスの音楽、 たとえば「オン・ザ・コーナー」の方がずっ とアナーキーで成り行きまかせなところがあ る。余談ながら、そんなマイルスの手綱を握 っていたのがプロデューサーのテオ・マセロ だったのだろう。
 ただ、私にしたところでハンコックのライ ヴに接したことは無いし、ポップなアルバム で持っているのは近藤等則が参加している「 サウンド・システム」だけである。だから大 きなことは言えないし、ジャズのアルバムで 持っているのも最初に挙げたソロアルバム「 ザ・ピアノ」と「トリオ81」、あとはマイル スのサイドメンとして参加しているものしか ない。ただ、以前、チック・コリアとのデュ オアルバムと、ハンコックが音頭をとって結 成したVSOPのアルバムを聴いていたこと はあった。
 それでも、ハービー・ハンコックがソロや トリオで録音した数少ないジャズアルバムは 私に不思議な安心を与えてくれる。それは、 あふれる才能に恵まれながら、決してそれだ けに没入することのない、謙虚な常識人とし ての強さと優しさではないかと思う。それは 、チック・コリアやキース・ジャレットの天 才からは聴きとることができない素晴らしい 特質だろう。
 そんな特質を一番よく聴くことができるの が、冒頭に挙げたソロアルバム「ザ・ピアノ 」だと私は思う。彼のソロアルバムはこの一 枚しかないと言って良いだろう。これは、七 十年代末に日本のレコード会社の要請で制作 された貴重なアルバムである。
 スタンダードと自らのオリジナル曲を短い 時間で演奏している、という点ではキース・ ジャレットが病を乗り越えて九十年代末に制 作したソロアルバム「ザ・メロディ・アット ・ナイト、ウイズ・ユー」と同じなのだけれ ど、この二枚を聴き比べてみるとふたりの違 いがよく分かる。私は「ザ・ピアノ」の方が 好きである。キース・ジャレットは長大な持 ち時間の中で、うなり声を上げて身をくねら せて自分に没入した時に本当の凄味が出るピ アニストであって、ピアニスト自身にせよ聴 き手にせよ、凡庸な現実との境目に直面して しまった時はハービー・ハンコックの音楽の 方がずっと説得力があるような気がする。
 私自身、この現実を生きてゆく中で自分が うまく信じられなくなった時は、「ザ・ピア ノ」のことを思い出して何度も聴き返してき た。たとえば、何とかその日の仕事を終えて から寝床の中でこのアルバムを聴くと、その ままぐっすり眠れて明日も生きてゆけそうな 気がした。そして実際いつもそのとおりにな った。あるいは、書きたくない手紙をどうし ても書かなければならない時は、いつもこの アルバムをかけていたような気がする。この 演奏は本当にささやかで可憐なのだけれど、 そんな音楽がこれほどの力で私を支えてくれ た。それは、「ザ・ピアノ」が夢や無意識よ りも、厳しい現実とのせめぎあいによって生 まれた音楽だからなのだろうと私は想像して いる。
 それにしてもよく分からないのは、ハービ ー・ハンコックというピアニストが、ソロや トリオのジャズアルバムを作りたがらない、 ということである。その気になればこれだけ 素晴らしい録音を残せるのに、本人にはその つもりがほとんど無いようなのだ。トリオで 日本のライヴハウスに出演することは多いよ うだけれど、好評であってもそれがCDにな ったことは一度も無い。そしてその理由は誰 にも分からない。
 多才で新しもの好きのくせに、自分の演奏 がでしゃばるのをこのひとは極端に嫌うよう なのだ。こんな不思議な音楽家は他にはいな いだろう。
 先ほど挙げたチック・コリアとのデュオア ルバムにしても、ソロのきっかけをつかむの はいつもハンコックではなくてチック・コリ アだった。このアルバムを聴いて、チック・ コリアの方がピアニストとしてはずっと凄い んだ、というひとが多かったけれど、この企 画のプロデューサーは実はハンコックである 。自分が設定した場でチック・コリアをこれ だけ歌わせているハンコックの方が本当は凄 いんじゃないか、と私は思っていた。ふたり の激突を聴きたければ、このアルバムよりも 、ふたりそろってマイルス・デイヴィスのサ イドメンだった頃の録音を聴いてみればいい だろう。そこでもハンコックはわき役にまわ りがちだけれど、彼の技量が決してチック・ コリアに劣るものではないことが分かると思 う。
 そんなハンコックが本当に楽しげに演奏し ているのがVSOPクインテットだったと思 う。気心の知れた同世代の仲間たちに囲まれ て、彼は自分の曲をのびのびと弾きこなして ゆく。そんな環境がそろわない限り、彼は他 人への気遣いなく演奏するわけにはゆかない ひとなのだろう。その冒頭で、自身の名曲「 メイドン・ヴォワイヤージュ(処女航海)」 につながってゆく長いソロを彼はエレクトリ ック・ピアノで奏でる。その演奏が私は本当 に好きだ。謙虚な常識人の、しかし果てしな い夢とロマンティシズムを惜しげなくそこで 聴かせてくれる。それに寄りそって演奏に加 わってゆく仲間たち、順にロン・カーター、 トニー・ウイリアムス、そしてウェイン・シ ョーターとフレディ・ハバードとの対話はま るで本当の穏やかな波のようだ。ベテランた ちの演奏でありながら、これは実に初々しく て、確かに「処女航海」という名がふさわし い。不思議なことだと思う。
 現実の荒野を前にして、自分が今ひとつ信 じられなくなった時、私はこれからもそんな ハービー・ハンコックの音楽を聴き続けてゆ くことになると思う。「サウンド・システム 」以外に聴いたことがない、彼のポップなア ルバムもこれから聴いてゆくことになるだろ う。
 凡庸な現実に足を踏まえた謙虚で新しもの 好きな天才。無理に言葉で彼の音楽とひとと なりを表すとそんなふうになるのだろうか。 その意味で彼は見た目に反して、とんでもな く難解で孤独で、しかし優しいひとなのかも しれない。つまり、凡庸な現実を知りつくし ながら、それにめげることなく魔法をかける 術を誰よりもよく心得たひとなのかもしれな い。
 最後につけ加えるなら、「ざらつく現実」 から目をそむけることなく夢をみ続けるため に、私自身もそんな魔法をかけ続けなくては ならない。もし、その魔法が解けて全てが白 けてしまったら、世界は無意味で冷たい本当 の荒野になる。そこには音楽も写真も何も存 在する余地は無い。その時、私が生き続ける 理由は無くなってしまって、死の方が現実よ りもずっと甘美になることだろう。それは私 にもよく分かる。
 天才ハービー・ハンコックに遠く及ばない にせよ、そんなふうに、謙虚に魔術的に生き られれば私は本当に幸せなのだけれど…



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