愚者の楽園

川原泉のマンガに「愚者の楽園」という短 編があるが、今回はその話ではない。
 誰なのか忘れてしまったけれど、ある外国 人が日本の学校について、「小学校は託児所 、中学・高校は刑務所、大学はレジャーラン ド」と言ったのだそうだ。確かにこれは当た っていると私は思うけれど、その調子でゆく と会社は愚者の楽園で養老院はゴミ捨て場、 ということになるのかもしれない。
 大きな会社なら、賢くてまともなひとは全 体の一割いれば良い方だと私は思うし、中に は社長始め正社員は全員阿呆の能無しとしか 思えない会社もなくはない。そんな連中に限 って苦労をひけらかして思い上がっているも のだが、それでも彼らは食っていけるわけで 、要するに世間とはずいぶんいい加減なもの である。
 もちろん、私はそれなりに会社勤めの経験 があるし、私の周りには父や弟を含めて、会 社勤めを続けながらも尊敬に値するひとがた くさんいる。そして、大多数の電車の運転士 や郵便配達のおじさんのように、黙々と、し かも誇りを持って仕事に取り組んでおられる 方も世間にはたくさんいる。しかし、私はそ のどちらにもなることができなかった。村上 春樹は「能書き無しで誠実に生きているひと がいちばん好きです。でも私は結局そう生き ることができなかった」というようなことを 言っていたけれど、その、自分を噛みしめる ような気持ちが私にもやっと分かってきたの かもしれない。
 私もいずれまた会社勤めをすることになる と思うけれど、ある程度以上の大きさの会社 にはもう勤められないだろうと思っている。 小さな会社で、私を理解してくれているひと の下で、そのひとの右腕になって働く、そん な働き方しか私にはないだろう、と覚悟を決 めている。
 橋本治は、働くというのは自己表現ではな くて他人の需要に応えることだ、と述べてい て、それは私もよく分かるつもりだけど、愚 者の楽園の住人たちはその意識さえも希薄な ように私には見える。一体やつらは何者なん だろう、と私はずっといぶかしんでいる。く だらない理由にかこつけて自分から目隠しを して、伸び切ったパンツのゴムのような生活 をだらだら続けているだけではないか。彼ら は、自分もいつか死ぬ、という当たり前のこ とさえ自覚しているのかどうか疑わしい。適 度にだぶついた収入がそんな生活を維持して いるわけで、中途半端なお金は人間をこのう えなく堕落させるようである。
 古代エジプトで、ピラミッドを作った労働 者は奴隷ではなく、自分の住居と家族を持っ た自由なひとびとだった、という話を聞いた こともあるが、あんなものは住居と家族を持 っていても、現在の我々から見れば奴隷でし かない。あんな生活を「自由」と言われては かなわないと私は思う。何千年経っても人間 の在り様は変わっていないようである。
 また、手塚治虫の「三つ目がとおる」で、 三つ目の写楽くんが京都の酒船石のことを、 人間を奴隷にする薬を調合するための器だっ た、と述べる場面がある。古代の権力者は、 その薬を飲ませて生ける屍にした連中を使っ て大きな古墳を作ったのだ、と彼は続けてい る。
 しかし、べつにそんな薬を使わなくとも似 たようなことはできるのである。卵が先なの か鶏が先なのかよく分からないが、人間の数 がこうやたらに増えてくると、ひとりでにヒ トはそれに近い生き物になってしまうのかも しれない。そうでもしなければ、人類全体の 生存が危うくなるのだろう。「愚者の楽園」 はヒトの種としての知恵なのだろうか。もし 、人間全員が自意識に目覚めて、お釈迦さま やキリストのように強く賢く優しくなってし まったら、世間は全く回らなくなってしまう のだろう。
 そんなわけで、ふわふわと水面にただよう 泡のような人生を送るひとが世間の多数を占 めるのだが、だから連中は殺してもいいのだ 、と短絡すると、ドストエフスキーの小説の 主人公のようになってしまうので私はそうは 思わない。だいいち、私はそんなに偉くない し悟ってもいない。時々、泣きたくなるほど かなしくなるだけである。結局、私は幼い頃 に感じていた、この世界で本当に生きている 存在は私ひとりではないのか、という孤独な 疑念を完全に払拭できずに大人になってしま った。ただ、そのおかげで、ひとのまごころ やぬくもりを心底嬉しく受けることができる 、という思いがけない幸せを手にしている。 イルカ(歌手)の「ビロードの夜」という歌 を聴いてみて下さい。
 ところで、私の父は大きな会社でずっと勤 め上げてのし上がっていったひとで、その詳 細を子どもに語ることはないけれど、その苦 労や哀歓は一緒に暮らしていればよく分かっ た。
 父は定年を迎えた後、子会社に出向して今 も働き続けている。今、もしかしたら父は愚 者の楽園にヤキを入れるのが楽しくて勤めを 続けているのではないか、と私は思うことが ある。現在の父の部下の方と私はお話したこ とがあるのだが、その方は父が会社に来てく れたおかげで中間管理職の意識がだいぶ変わ って仕事がやりやすくなった、と語っておら れた。それがお世辞でないことは私にもよく 分かる。父にとって、それは大変だろうけど もこの上なく面白いことなのかもしれない。 父は定年前に会社のヤクザ対策のような仕事 もしていたことがあったらしく、決して凡庸 な愚者の楽園の住人というわけではない。
 そんな、羊の皮をかぶった狼として会社組 織の中に潜伏する、という生き方は本当に魅 力的で、私もそれに憧れてずいぶん努力して みたのだけれど、結局それができずにドロッ プアウトしてしまった。こうして、はぐれカ ラスのような写真家になってしまった私は不 肖の息子、ということもないのだろうが、そ んな私を父がどう思っているのかはよく分か らない。
 父に限らず、尊敬に値する私の先輩や友人 たちはそんな「羊の皮をかぶった狼」として 会社の中で生き続けている。彼らは皆、会社 を離れても生きていけるひとたちなのだが、 愚者の楽園、つまり世間を陰からあやつるの がこの上なく面白くて会社に勤め続けている ように私には思えてくる。また、私の弟はそ れをシニカルに観察しながらそれなりに楽し んで生き続けているように見える。それが会 社勤めの醍醐味なのかもしれない。うらやま しい気がしないでもない。
 また、私の人生の大恩人である森山大道先 生は、実は私の父と誕生日が三日違いの同い 年である。心ならずも父が受けとめられなか ったものを私は森山先生に託してしまったの ではないか、という気がして、これは森山先 生にも父にも迷惑なことだったのかもしれな いけれど、私としてはそうさせてもらう他に 生きる方法がなかったのだ。この場を借りて 森山先生と父にお詫びしておきたい。まあ、 親としてはこんな息子が生まれるとずいぶん 大変だろうな、ということは最近やっと分か ってきたけれど…
 森山先生は会社勤めをなさったことはない けれど、お父様は保険会社の支店長をしてお られたわけで、森山先生も愚者の楽園の哀歓 は骨身に染みてご存じでおられる。言うまで もないことだが、会社に限らず学者や芸術家 が群れる場所も愚者の楽園に変わりはない。 文庫版「犬の記憶」の八二頁に、通勤電車の 中で疲れ切って居眠りしている男たちの写真 が載せられているが、それを知っていなけれ ばこんな写真は撮れないだろうと私は思う。 あまりにも日常的な場面であるが、これほど 凄惨な写真も無い。愚者の楽園の救いの無い 暗黒である。そこに哀歓や連帯ではなく絶望 を見てしまうのは私の欠陥なのかどうか。
 また、「ガリヴァー旅行記」で愚者の楽園 を徹底的に愚弄したスウィフトは晩年に発狂 してしまったけれど、人間嫌いもここまでく れば本物である。しかし、私は本物の人間嫌 いになることもできなかった。私だって連中 と大差ないのである。もうひとつの人間嫌い の書「マルドロールの歌」も私は大好きだけ れど、作者のロートレアモン伯爵のように、 謎を残して若死にすることも私にはできなか った。せいぜい、恥を知れ、と自分に言い聞 かせながら、しかもなるべく自虐的にならな いように生き続けようと思う。
 結局、バブルだろうが不景気だろうが、こ の強固な愚者の楽園は変わらずに存続し続け る。戦争が始まろうが役人や政治家が私腹を 肥やそうがそれは変わらない。地下鉄にサリ ンが撒かれても変わらなかった。身をよじっ て苦しむひとを尻目に、他のひとびとは平然 と朝の出勤を続けたのである。
 繰り返しになるが、何が起ころうとも愚者 の楽園は怠惰に回り続ける。世間の荒波、な んて彼らは言うけれど、そんなものはただの 言い訳でしかない。それを知ったうえで言っ ているのかどうか、私にはいまだによく分か らない。よくやるものだと思いながら、私は 相変わらずのほほんと生き続ける。私だって それなりに楽しく生きているのである。ふふ ふ…



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