「やり過ごす」話

ビートたけしの「たけしの20世紀日本史」 という本は、今からちょうど百年前の一九〇 四年に開戦した日露戦争の話から始まってい る。その冒頭で彼は、「今の世の中のありと あらゆる問題事は、ちょうど一世紀前から始 まっていることがはっきりわかるんだね」と 書いているけれど、この本は説得力があって 本当に面白い。
 日露戦争に始まるこの本の終わりはオウム 事件である。最初にこの本が出たのは地下鉄 サリン事件の翌年の一九九六年だが、「みん な食えるようになってしまったら、後はやる ことが何もありませんでした」「行き着くと ころがオウムというんだから」ということで 本文は終わる。「人間の生き方もバブルと同 時にはじけた」というたけしの意見に、それ から八年経った今でも返す言葉はみつからな い。
 バブルがはじけて、オウムがハルマゲドン を起こしてから、世の中はそのまま沈むばか りで大した変化が無い、ということだろうか 。まさに「歴史の終わり」なのかもしれない 。その後の変化と言えば、失業率が倍になっ て、うつ病やひきこもりが増えて、少年犯罪 や自殺が増えて、役人や医者の不祥事が増え て、自爆テロが流行り、コンピュータネット ワークが飛躍的に発達した。そんなところだ と思う。もちろんこれらは全部、関係しあっ ているのだろう。
 私自身もこの間、失業を経験し、うつ病に 悩まされ、ひきこもりへの恐怖におびえ、役 人や食品会社の不祥事をまのあたりにした。 テロに巻きこまれなかっただけでも幸いと思 うべきなのだろう。そして、生来のアナクロ ・アナログ体質にもかかわらず、やわらさん 始め皆さんのご厚意で「東京光画館」に連載 を続けている。世事に疎い私の身の上にも、 時代の流れはくっきりと刻まれているようで ある。
もともと世の中というのは現在のように、 のっぺりしてめりはりが無いのが普通なのか もしれなくて、追われるように変貌して進歩 してきた今までが異常だった、という考え方 もできる。しかし、何かに追われるのに慣れ 、何事も進歩してゆくのが当然と思いこまさ れてきた我々にとっては、その、めりはりの 無い「普通」に慣れるのはなかなか大変なよ うに思う。様々な病の原因はきっとそこにあ るのだろう。たとえて言えば、急ブレーキを かけられてつんのめっている状態かもしれな い。
 それをようやく思い知った私は、ついつい 後ろ向きになって過去の時代を物色すること になる。現在に似た時代はこれまでなかった のだろうか、とあれこれ考えてみたりする。 時間は否応なしに進んでゆくけれど、人間に 未来を予見する力は無く、我々の現在への視 野はあまりにも狭い。しょせん人間は後ろ向 きに前に進んでゆくしかない生き物である。 そう考えて自分を正当化する。
 あるひとは、今の時代は一九三十年代、大 恐慌の後の日本やアメリカに通じているかも しれない、と教えて下さった。なるほど、と 私は思う。ただ、三十年代の長い停滞の後に はファシズムによる第二次世界大戦がやって くる。現在の後にテロと過酷な地域紛争は起 こるかもしれないが、おそらくファシズムも 世界大戦も無いと思う。ここのところが三十 年代と現在の違いだろうとも思う。
 奇妙なことに、これだけメディアが発達し ても、戦争が起こる前の世の中の雰囲気や、 報道機関の無責任なはしゃぎぶりは百年前の 日露戦争と大差ない、という意見を聞いたこ ともある。また、いざ戦争が始まったとして も、その戦術は今も昔も気候や日照を考慮す ることに変わりはないらしく、いくら道具が 進歩しても、人間のやることにやはり根本的 な変化は無いようである。そんなことに思い をめぐらせてみると、なんだかよく分からな い現在を生きのびるために、過去の時代を参 照するのもそれなりに意義があるような気が してくる。
 ところで、時々私が読み返す、橋本治の「 二十世紀」という本には、一九三十年代は不 況にもかかわらず、日本もアメリカも文化的 には充分豊かだった、という記述が出てくる 。豊かさの中で人間は破滅の準備をする、と も彼は書いている。そう言えば、私の両親や 祖父母の世代から、戦中戦後の貧しく厳しい 時代の回想を聞かされることは多々あったが 、戦前が貧しく厳しい時代だった、という話 を聞いたことは無かったように思う。また、 文学史や美術史を見てみると、この時代には サイケデリックでグロテスクなアングラ文化 が流行っていたらしい。学校の歴史の教科書 には、この時代について暗い記述ばかりが続 くので我々はついつい錯覚してしまうけれど 、戦前、ことに一九三十年代というのは暗さ と豊かさが同居した奇妙な時代だったのかも しれない。一九三六年には阿部定事件が起こ っている。
 暗さと豊かさが同居している、というとこ ろでこの時代は現在に通じているのかもしれ ない。要するに、豊かだけれど堕落した時代 、そこを生きのびる知恵というのはなかなか 難しいように思う。貧しく厳しい時代なら、 マジメに倹約していればよいから考え方とし ては簡単なのだが、豊かで堕落した時代とい うのは単にマジメにやっていればよい、とい うわけにはいかないから大変なのである。  そこを無理にマジメ一本にやり抜こうとす ると、私のように「うつ」に悩まされること になる。ひとによっては「おたく」になった り「ひきこもり」になってしまうのかもしれ ない。
 つまり、マジメとフマジメを真面目に使い 分ける知恵が必要になるわけだが、私のよう にその才能に恵まれていない人間は、七転八 倒の苦しみを経てようやくそれを身につける ことができる。最近、私にとって「うつ」は そのためにどうしても必要だったのだ、とよ うやく思えるようになってきた。であれば、 「うつ」の苦しみも決して無駄ではなかった わけで、これが人生の種あかしのひとつなの かもしれない。
 ここでマジメとフマジメを使い分ける知恵 を誤ると、宮沢賢治のように早死にしてしま うことになる。賢治はどうやら最初から早死 にすることを覚悟していたようだから、それ は本人の勝手なのかもしれないけれど、私は そういうわけにはいかない。だから心苦しく 思うけれど、賢治にはもうしばらくの間、反 面教師でいてもらう必要がある。
 私が偏愛するこの時代の作家で、日本に限 って名を挙げてみても、中島敦は喘息を悪化 させて早死にしてしまったし、尾崎翠は神経 を病んで帰郷し、消息を絶ってしまった。辻 潤は無一文になって放浪を続け、戦争末期に ひと知れず餓死してしまった。そして、あま り書きたくないけれど、草野心平は金子光晴 ほどではないにせよ、戦争を煽る時の権力に 迎合したふしがなくはない。やはり、現在に 比べると格段に厳しかった時代にあって、自 由な創作を続けて生き抜くことがいかに困難 であったか、ということだと思う。
 この時代を生き抜いて長寿を保ち、我々の 時代まで自由な創作を続けた作家と言えば、 私は石川淳を挙げる。彼は澁澤龍彦と同じ年 に亡くなったが、あの年の文芸誌には、石川 の「蛇の歌」と澁澤の「高丘親王航海記」が 同時に連載されていた。真に作家の名に値す るふたりが、生命をかけて書き続けた絢爛た る絶筆が同時進行していたわけで、あれは今 思い出しても凄かった。
 ただ、生涯にわたって宮仕えをせずに自由 をつらぬいた石川淳だが、出版社からの前借 り生活はなんと七十歳の頃、つまり大作「狂 風記」の連載を始めるまで続いたらしい。若 かった頃は推して知るべし、である。彼が亡 くなった時、「人は二人の主にかね事うるこ と能わず。権力と富に事えるか、精神の自由 に事えるか、そのどちらかです。」と言った 批評家がいたが、まさにそのとおりの人生を 彼は送ったことになる。
 しかし、石川淳が他の作家と全く異なるの は、その作品にも、風貌にも、経歴にも、貧 乏臭さと正反対の自然な気品や余裕が溢れて いることだ。これは本当に魅力的なことだと 私は思う。まさに、マジメとフマジメを真面 目に使い分ける知恵を持った数少ない作家だ ったと思う。
 敗戦にかけて、石川淳は厚生省の外郭団体 で臨時の仕事をしながら、森鴎外の研究や江 戸文化の研究にふけっていたらしい。戦後、 彼は「戦時中は江戸に留学していました」と 語ったことがあったそうだ。橋本治はそれを 引用して、「私も七十年代初めの学園紛争中 は江戸に留学していました」と語っていたこ とがあった。
 結局、昔も今も、こんな堕落した時代は、 マジメとフマジメを使い分けてひっそりとや り過ごすのが最上の策なのかもしれない。破 滅型の天才でもない限り、早死にするわけに はゆかないし、また、一度でも権力に迎合し てしまえば、後味の悪い影を残すばかりとい うことになる。
 世間とかかわりを断つことなくそれなりに 働き続け、石川淳や橋本治にとっての「江戸 」のような芳醇な小世界に遊ぶこと。宮沢賢 治のように過度にストイックになることなく 美味しいものを食べ、温泉につかり、素敵な 友人や女性とおつきあいすること。質素な旅 に出る習慣を持ち続けること。本を読み音楽 を聴くこと。そして何よりも文章を書き写真 を撮り続けること。
 世界は苦患に満ちているけれど、見ろよ青 い空、白い雲、そのうちなんとかなるだろう 、と井の中の蛙のように遠い青空を望みなが ら「やり過ごして」いこうと思う。時代の病 と無縁でいよう、というわけでは決してなく て。



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