ミトコンドリア

昨年の暮れに出た山下洋輔トリオの「LI VE1973」というCDをここのところよ く聴いている。山下洋輔のピアノ、坂田明の アルトサックスとクラリネット、森山威男の ドラムスからなる伝説の山下トリオの私家録 音だが、デジタル処理のおかげでカセット録 音とは思えない良い音で再生されている。こ とに、山下洋輔のピアノの美しい音色がはっ きり聴きとれるのが嬉しい。
 スイングジャーナル誌に載っていた、この 頃の三人のポートレートを見ると、皆とても 美しくて澄みきった顔をしている。もし、少 しでも邪心があれば、こんな美しい表情はで きないだろうし、音楽が作りだすエネルギー によって彼ら自身が深い傷を負ってしまうだ ろう。まさに真剣勝負の美しさだと思う。そ して、山下洋輔はエッセイストとしても名高 いが、私は彼の文章をかたっぱしから読んで いた時期があった。誰のどんな文章よりも面 白くて私自身の最高の栄養になったと思って いる。
 ところで、この時期の山下トリオはしばし ばセシル・テイラー・ユニットと比較される 。楽器編成も同じだし、「フリージャズ」と いう同じジャンルで語られるし、山下自身が テイラーの影響を口にしているのも確かであ る。しかし、「似て非なるもの」という形容 がこれほどよくあてはまるものは、そう見あ たらないように私は思う。一方のテイラーは 、「どうして私と山下が似ていると言うのか 理解できない」というような発言をしていた と私は記憶している。
 テイラーと山下はどう違うのか、と言われ ても私にはうまく説明できない。ピアノの演 奏も音楽の研究もしたことがない私にはそれ は荷が重い。また、残念ながら私はテイラー のライヴに接したこともない。ただ、テイラ ー・ユニットと山下トリオの録音を聴き比べ てみると、そこに演奏者の個性以上の違いが あるように思えるのは確かである。演奏技術 の優劣というわけではない。テイラーも山下 もそのピアノの音色は信じられないくらい澄 みきっている。ただ、テイラーはあくまでも 正確に弾き切ろうとしているように感じられ るけれど、山下はピアノを極限まで鳴らそう としているような気がする。
 明確な違いは、むしろサイドを務めるサッ クスとドラムスにある、とは言えるかもしれ ない。テイラー・ユニットのジミー・ライオ ンズはチャーリー・パーカーのように吹き始 めるけれど、山下トリオの坂田明はアブスト ラクトなフリークトーンを最初から連発する 。それが不思議に耳障りでないのが坂田明の 素晴らしいところだろう。また、テイラー・ ユニットのアンドリュー・シリル(サニー・ マレイが加わった録音もあるが)は軽やかに 、テイラーのピアノと戯れるように叩くけれ ど、山下トリオの森山威男のドラムスは重い 。森山の名曲「クレイ(モハメッド・アリ) 」というネーミングがよく似合う。
 グループのスタイルとしては、テイラー・ ユニットの演奏は永遠に続く円環を思わせる けれど、山下トリオには直線的な起承転結が ある。
 ただ、こんなふうに両者の相違点を挙げて みても、私はテイラーや山下の音楽の核心に 迫ったような気持ちには全くなれない。私の 言葉をはるかに越えたところで、二人の音楽 は美しく響き続ける。それに身をまかせなが ら、私は「似て非なるもの」という言葉を感 覚する。写真で言えば、森山大道と初期の中 平卓馬の違いに似ているような気がする。
 さて、この「LIVE1973」には坂田 明の「ミトコンドリア」という曲が収められ ている。ミトコンドリアというのは生物学の 用語で、細胞内に存在する小器官の名である 。その役割は、酸素呼吸を行って生物のエネ ルギー源であるATP(アデノシン三リン酸 )を大量に合成することにある。言わば、細 胞内の発電所のようなものだと思えば良いと 思う。
 この文章を書くために、私はひさしぶりに 分子生物学の本を読んだ。学生時代を思い出 してなかなか面白かった。これでも私は農学 部の農芸化学科の出身なのだ。で、ミトコン ドリアは、太古の時代に、酸素呼吸を行う単 細胞生物が他の単細胞生物に寄生したのが起 源と言われ、母細胞(細胞核)とは独立した 遺伝子(DNA)を持つ。そして、世代交代 の際は母親(卵子)だけの遺伝子を受け取る 単為生殖を行う。受精の際、それまでの激し い運動のために損傷を受けている可能性が高 い精子のミトコンドリアDNAは徹底的に抹 殺されるのだそうだ。
 私が読んだ講談社ブルーバックスの「ミト コンドリア・ミステリー」という本には、そ のために、母性遺伝する遺伝病の原因は全て ミトコンドリアにあるのではないか、という 疑問についての研究が紹介されている。ただ 、ミトコンドリアにかかわるDNAの一部は 、そこを離れて細胞核のDNAに侵入して機 能している。そのため、この疑問についての 研究はより複雑になっている。つまり、ミト コンドリアは機能的にも、遺伝的にも母細胞 に寄生したうえで、この上ないバランスを保 った共生関係を維持している。そのことが、 生命というシステムを維持し、その可能性を 拡大するために不可欠の条件となっているこ とが明らかにされる。共生という様式が、生 命にとって本質的なものであることを思い知 らされる。それは「もたれあい」であり「せ めぎあい」でもある。
 分子生物学を離れてこの様式について考え てみると、これをここ最近の「うつ」のせい で「孤独」のことばかり考えている私自身の 病を矯正するヒントにしなければいけないよ うな気がしてくる。ひとは独りでは生きてい ない、というごくあたりまえのことを考える ように自分自身を変えていかなければどうし ようもない。
 要するに、私の孤独なんてつまらない思い こみに過ぎない。この世にただひとつ存在す る「私」は世界に寄生する孤独な虫のような ものではないのか、という疑念に私はずっと 苦しんできたけれど、それは架空の静止モデ ルに過ぎないのだろう。孤独は実は連帯であ る。ロートレアモンやサドが描いたフィクシ ョンと違って、本物の世界は生命を持って動 き続けている。そこでは、自らの生を保証し ようとすることが他者を利することになる。 おそらく、全てはクラインの壺のように裏返 ってつながっているのだ。ちょうど、細胞核 とミトコンドリアのダイナミックな共生関係 のように。網状に広がって収縮を繰り返し、 細胞核と関係していくミトコンドリアの模式 図は、私にクラインの壺を思わせる。あれは 、実は「私」と他者の理想的なかかわり方の モデルなのかもしれない。他者を徹底的に抹 殺したロートレアモンやサドの毒は魅惑的だ が、それは私にとって現実を冷たく固定する 試薬のような働きをしたと思う。
話をもとに戻すと、「ミトコンドリア」と いう曲名を付けた坂田明は広島大学水産学部 の出身で、現在はミジンコ(プランクトン) の研究家としても知られている。自宅でミジ ンコを飼い、実体顕微鏡でビデオを撮り、そ れを学会で発表したり、各地の水環境のシン ポジウムに招かれて講演するくらいだから、 その見識は半端ではない。
 彼は船乗りに憧れて水産学部に入学後、ジ ャズにのめりこんでプロになってしまったそ うだ。私は坂田明のライヴを二回聴いたこと があるけれど、このひとは本当に理知的な音 を出すな、という印象を受けた。心を打つ、 しかもたのしめる音楽なのに、音が感情より も理知を感じさせるのだ。そんな音楽家は他 に見あたらないように思う。不思議だ。
 山下洋輔は、動物学者の日高敏隆との対談 の中で、この「ミトコンドリア」のネーミン グは坂田明のとっさのでまかせである、と述 べている。ライヴ会場で、司会者に曲名を訊 かれた彼がたまたま口にした言葉にすぎない 、ということである。山下トリオは、彼自身 が認めるように演奏は勝手放題、曲名の付け 方はでまかせ、というわけである。
 しかし、面白いことに日高敏隆がその録音 を同僚の分子生物学者に聴かせてみると、「 さすがにミトコンドリアらしく、力強い曲で すねえ」と言ったひとがいたのだそうだ。分 子生物学者は、もちろんミトコンドリアがエ ネルギー源を合成する器官であることを知っ ていたのだし、名付け親の坂田明もそれを知 っていたわけである。それを頭においてこの 曲を聴いてみると、なるほどこれはミトコン ドリアだなあ、と思えてくるのは不思議であ る。
 山下トリオの演奏は、どれもやかましいか ら同じじゃないか、という意見もあると思う が実はそう簡単ではない。山下トリオの演奏 は、曲によって三人ともずいぶん演奏の仕方 を変えているように思えるからだ。
 この「ミトコンドリア」では、坂田明は一 本のアルトサックスをはもらせて和音を出そ うとしているように聞こえる。山下洋輔のピ アノは一音の連打と共に、沸騰するような和 音をかなでてそれに応える。森山威男のドラ ムスはふたりを後ろからサポートするように 響く。三人の音が重なると、そこから他の曲 にはない深みのある不協和音が聞こえてくる 。その演奏は、たしかにエネルギー源を激し く合成する「ミトコンドリア」という名がぴ ったりである。そして、ネーミング以上の底 知れぬ魅力がこの演奏にあるのも確かである 。また、ネーミングを含めた三人のやりとり が、音楽をより深めて構造化していく事情も 山下洋輔は語っている。科学者と芸術家の直 観とは恐ろしいものだと思う。
 しかし、坂田明のホームページを見ると、 彼は「一年の計は簡単である」と全てを軽く いなすかのようである。私もそんな軽みを備 えた男になりたい。そのホームページには、 音楽家としての彼の情報の他に、ミジンコの 生態に関する専門的なコーナーもある。また 、彼の著書を読むと、瀬戸内で過ごした彼自 身の少年時代の思い出が魅力的に語られてい る。これら様々な経験や興味が渾然となって 坂田明の音楽と人生をかたちづくっているの だろう。そんなひとは、孤独というわなには まることなく他者に魅力を持って語りかけ、 世界に対して素晴らしい謎をかけることがで きる。私もそんな素敵に魅力的な男になりた い。



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