水の誕生

写真家の田中長徳さんが「カメラジャーナ ル」の編集長と著した「デジタルカメラに写 真が撮れるか」という本に目を通した。今、 私の手許にその本が無いので、不正確なこと を伝えてしまいそうで申し訳ないけれど、写 真の現場の最前線で仕事をしておられる写真 家が、真剣に写真メディアの変容について議 論しておられるのに感銘を受けた。
 私はと言えば、デジタル優勢の世の中とい うのに、相変わらず銀塩のMF(マニュアル フォーカス)カメラを使い続けるアナログ写 真家である。アナクロ(時代遅れの)写真家 ということなのであろう。
 現在私が使っている機材のほとんどはもう 生産中止になってしまっているけれど、とり あえずメンテナンスは可能だし、新たに必要 なものは中古屋を探せばだいたい入手できる 。そして、ありがたいことにアナログの写真 原稿でもやわらさんは「東京光画館」にきち んと掲載して下さる。私の原稿を読みこむ際 、やわらさんにはずいぶんご苦労をおかけし てしまっているのだろうと心苦しくなるけれ ど、やわらさんは優しいので、そんな私のス タイルを暖かく見守っていて下さる。感謝す るしかない。
 今のところ、私にはデジタルはもちろん、 AF(オートフォーカス)も必要無い。必要 無いものに手を出すほど私に経済的な余裕が あるわけでもない。少し前に、コンタックス から「愛機と呼べるデジタルカメラ」という コピーで新製品が出たけれど、あれも私の食 指を動かすには至らなかった。十数年前に出 た、銀塩のコンタックスT2は私の愛機とな ったのだから、これはコンタックスに対する 拒否反応というわけではないような気がする 。もっとも、先年出た銀塩のT3は好きにな れなかった。銀塩カメラがデジタルの真似を することもなかろう、と私は思った。
 それを言い始めると、AFカメラのはしり となったミノルタα7000からして私は興 味が持てなかった。すでに銀塩の頃から、ボ タン操作の全自動カメラが私は嫌いだったの だ。さらにそれがデジタルになると、無粋な 液晶画面がカメラの背後でのさばるようにな る。しょせん写真なんてヴァーチャルなお遊 びなんだよ、とカメラに馬鹿にされているよ うな気がして私はあれが好きになれない。現 実をカメラという暗闇の中に閉じ込めてやっ た、という撮影の快感が損なわれているよう に思う。
 だから、と言っていいのかどうかよくわか らないが、私は銀塩のペンタックスMZシリ ーズには好感を持っている。あれはAFとは 言えほとんどがダイヤル操作だし、ボディー もレンズも自然に手になじんで感触がいい。 私が今、日常的に持ち歩いているのはMZシ リーズのMF機、MZ−Mに四三ミリレンズ である。友人の写真家、長瀬達治は「OMと 違ってああいう存在感の無いカメラもいいで しょ」と言っていたけれどそのとおりだと思 う。これは手放さないで、使いつぶすまで使 うことになると思う。
 ところで、最初に挙げた田中長徳さんの本 で私がいちばん共感したのは、デジタル写真 は便利すぎるせいで、写真としての信頼性を 失っているのではないか、というところだっ た。たとえば、デジタル写真は簡単に加工が できるし、気にいらない写真は撮影後すぐに 消去できる。それは、写真家の意思を越えて 現実を忠実に複写する、という写真の最大の 特性を損なうことになるのではないか、とい うことだ。
 もちろん、銀塩写真でもそれはある程度可 能なのだけれど、デジタル写真はそれをいと も簡単に実現してしまう。写真は嘘を含んだ 真実の装置である、というのは言うまでもな いが、このままでは、いずれ写真とCGの区 別が無くなって、証拠や記録として写真は使 い物にならなくなってしまうのかもしれない 。便利になりすぎたせいで、我々は写真とい うかけがえのないメディアを失ってしまうか もしれないのだ。
 つまり、デジタル技術が安直なままに進歩 し普及してゆけば、写真の全てが偽物と疑わ れるようになる可能性がある。そして、写真 の信頼性が失われるということは、我々の眼 がその分だけ曇って愚かになってしまうこと を意味する。私はそんな時代を生きるのは絶 対に嫌だ。
 写真は、写真家の思いどおりにゆかないか ら素晴らしいのではなかったのだろうか。そ れゆえに、写真は写真家を越えてしまうこと があるのだ。それを足掛かりにして、写真家 はさらなる高みへと登ってゆける。これは写 真家にだけ許された特権的な快楽だったと思 う。
 写真は思いどおりにゆかない、あまのじゃ くな恋人なのだと私は思う。その恋人が、急 に従順になって言うことをはいはい聞くよう になってしまったら、写真家はいったい何を 楽しみに生きてゆけばよいというのか?
 そんなあまのじゃくな恋をするひとは世間 にはそれほど多くいないみたいだから、私の 言うことにあまり説得力は無いのだろうと思 う。しかし、そんな恋のとりこになったこと があるひとならば、その快楽を身にしみて知 っておられることと思う。それに辟易するこ とはあっても、手放そうとは絶対に思わない だろう。
 この際だから、私がどうしてもデジタルで 撮影する気になれない理由を整理してみたい と思う。写真は思いどおりにならないから素 晴らしい、という以外にも極私的な理由がい くつかあるような気がする。
 話を続けると、恋は色気が無ければ始まら ないが、私が写真に興味を持ち始めたのはち ょうど性に目覚めた頃だった。少なくとも私 にとって、これには大きな意味があるのかも しれない。
 私の写真への興味は、天体観測というステ ップがあったとは言え、まるで性の快楽のよ うに、本当にある日突然やって来たのだった 。それ以前にも学校の科学クラブで撮影や暗 室作業をしてみたことがあったが、特に写真 に興味をひかれることはなかった。それどこ ろか、それ以前の私は写真家という人種を軽 蔑していたふしさえあった。だから、今でも 私は、自分が写真にのめりこんでそれを続け ていることがどうにも信じられなくなる。
 以前も書いたことがあるけれど、科学者に なるつもりが写真家になるのが私の人生であ るらしい。しかも、華やかな職業写真家では なくて、大げさに言えばカフカやマラルメの ようなマイナーな作家として生きること。
 話がそれてしまったけれど、そんな私がこ うして写真を続けていられるのは、写真を生 み出す道具に色気を感じているのが大きいと 思っている。私が銀塩のMFカメラにこだわ るのは、そこに硬質な色気を感じるからだし 、銀塩写真にこだわるのは、フィルムや印画 紙や現像液に、ひそやかな妖気を感じるから なのだ。
 写真に興味を持ち始めた頃、つまり性に目 覚めた頃の私にとって、しなやかなフィルム の感触やその匂い、暗室の闇の中でてらてら 光る印画紙、しっとりなめらかな手触りの印 画紙は、とんでもなくエロティックだった。 もちろん今でもそうなのだけれど、現像タン クを使うフィルム現像は、水を使ってフィル ムをあやして孵化させるような感覚があった し、赤い光に満たされた暗室、酢酸臭がただ よう暗室は、まるで禁断の部屋のような妖し い雰囲気があった。その妖しい闇の中で、印 画紙はゆらゆらと画像を現すのである。
 それは、自分の身体に現れた性という快楽 を意識するのと、あるいは現実の女の子を好 きになるのと同じくらい魅惑的なことだった のだ。写真以外のどんなものも、科学や音楽 でさえも、そんな色気を私に感じさせてはく れなかった。だから私は写真をずっと続けて きたような気がする。
 カメラの闇と暗室の闇を通って銀塩写真は 生まれてくる。しかも、その過程で写真は水 の中を通る。闇と水を通り抜けて、外界の現 実は写真という異次元に再生し、定着される 。不思議なことに、自分で暗室作業をしない カラー写真でもこの魅力は存在する。カラー フィルムや印画紙のしっとりとした感触と匂 いは、そのエロティシズムを充分に想像させ てくれる。
 そんな銀塩写真は錬金術に似ている、とず っと考えてきたけれど、もしかしたら、私は そこに生命の誕生のアナロジーを見ているの かもしれない。生命は、まさに闇と水の中で 誕生するからだ。そして生命は、遺伝という 形で必ず他者の痕跡を抱えて生まれ落ちる。 それは、うつろいゆく外界の痕跡を定着する 、という写真の宿命にどこか似ているような 気もする。
 話を最初に戻すと、無粋な電気機器だけで 、しかも闇も水も介さずに成立するデジタル 写真に、そのエロティシズムを見いだすのは 私には難しい。私がデジタル写真に見いだす メリットは、銀塩に勝る伝達性や半永久的な 保存性にあって、その撮影の利便性には全く 無い。
 ところで、デジタル写真の優勢は今や疑い ようがないが、そのデジタル写真の進歩もあ と五年もすれば行くところまで行ってしまう のは明らかだろう。銀塩写真は、その誕生か ら百五十年をかけて発展し、成熟していった けれど、デジタル写真は実にその十分の一の 時間で発展の歴史を終えてしまうだろう。
 その後にいったい何が残されているのか、 裸の王様の行進にも似て、それを今の段階で 議論するひとは見当たらないように思う。大 手のカメラ会社にすれば、することが無くな ってカメラが売れなくなってしまうのが目に 見えているので、それを公言することができ ないのかもしれない。
 そう言えば、今から二十年以上前にはレン ズ交換式の一眼レフカメラを作っていた会社 は、日本だけでも十社近くあったのではない かと思う。現在のカメラよりも操作が難しく 、相対的に高価だったにもかかわらず、高級 なカメラがそれなりに売れていたわけである 。ビデオも無かった時代だから、質の良い記 録を映像として残そうとすれば、一眼レフカ メラを買ってその使い方を覚えるしかなかっ たのである。
 現在、銀塩の一眼レフカメラを作っている 会社は当時の半分くらいだ。別にそれを手に 入れなくとも、映像の記録を残す手段は他に もたくさんある。そのせいで銀塩カメラが供 給過剰になっているのだろう。デジタルカメ ラもあっと言う間にそうなってしまうことは 目に見えている。
 おそらく、あと五年くらい先にはやってく る、カメラの進歩の「死後の世界」がどんな ものなのか考えてみるのも面白そうだ。
 デジタル写真の進歩が終わってしまっても 、まだ銀塩のフィルムや印画紙は生産されて いるだろうから、銀塩写真が死んでいること はないだろう。ここに至って初めて銀塩とデ ジタルが共存するようになるのだと思う。進 歩が終わったデジタルと、しぶとく生き残っ た銀塩の双方を、落ちついて使いこなせるよ うになっていてほしいと私は思う。
 いずれは古いカメラやレンズのコピー商品 が正式に、しかも比較的安価に作られるよう になるかもしれない。以前も書いたように、 銀塩カメラは古い楽器のように作られ、使わ れ、引き継がれてゆくものになるのだと私は 思っている。
 水とともに、闇とともに、そして性の快楽 とともに誕生した私の「写真」がどんなふう にデジタル技術と関わりを深めてゆくのか、 楽しみな気持ちがしないでもない。
 そう言えば、写真を始めた頃の私がいちば ん感動した写真は、その頃木星や土星に接近 したパイオニアやボイジャーが送ってきた惑 星や衛星の鮮明なカラー写真だったけれど、 あれは銀塩ではなくてデジタル写真なのだっ た。そして、太陽系を離れてはるかな宇宙の 旅に出るボイジャー探査機には、地球の美し い景色やひとびとの写真がデジタル処理され て積み込まれているのだった。あの、果てし ない宇宙人へのメッセージは、十億年は消え ずに宇宙空間を飛び続けるとのことである。 人類の歴史をはるかに越えて、最も遠くまで 、最も未来まで残る写真である。



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