ノヴェンバー・ステップス
前回の原稿を出した直後に新潟県で地震が
起きた。正月明けの寒さに始まって、集中豪
雨、空梅雨、酷暑、あいつぐ台風と、今年は
本当に天災が多い。台風を含めて、私が住ん
でいる長野県上田市では大した被害は無かっ
たけれど、それでも田舎に住んでいるとその
気配は確実に感じられる。そして、今回の地
震は震源が近いので余震も確実にやってくる
。それが本当に余震なのか私ひとりのめまい
なのか、にわかに判断できないのが我ながら
心もとない。被災地でおびえる方々の気持ち
が少しは想像できるかもしれない。私は自分
の無力を噛みしめるばかりだけれど、せめて
元気で生き続けたいとは思う。
それと関係があるのかどうか、今回のよう
に近所で余震が続く大地震が起こると、私は
頭が締めつけられるような頭痛がする。これ
は果して地質学的に地震と関連があるのか、
それとも地震のニュースで「うつ」がうずい
ているのかは分からない。もちろん、被災者
の方々のご苦労にはおよばないけれど、なか
なかしんどい毎日ではある。
そのせいか、もちろんいろんな理由が重な
っているのだろうとは思うけれど、最近の私
はずいぶんとおびえながら毎日を送っている
ような気がする。何におびえているのかはよ
く分からない。それでも一応普通に暮らして
いるのだから病気というわけでもなくて、こ
れは「うつ」の治りがけの症状なのかもしれ
ない。目覚めている限り、もうひとりの私が
私自身をじっと凝視しているような感覚があ
る。眠っている時や仕事に没頭している時、
あるいは料理をしている時、もちろん写真を
撮っている時はそこから解放される。何もし
ていない時も自然でいられるようになれば、
この病は私から去っていくことになるのだろ
う。何だか悪いものが少しづつ解毒されてい
くのを体験しているみたいだ。めまいが鎮ま
るたびに私はそう思う。いずれにせよもう少
し時間がかかりそうだ。
眠りと言えば、新しい仕事のおかげで私は
ようやく夜またぐっすり眠れるようになって
、これは何よりも嬉しくて、毎日夜の眠りが
待ち遠しい気持ちさえある。養老孟司さんの
本には、睡眠中に脳が消費するエネルギーは
覚醒時と変わらない、と書かれていて、「意
識とはその程度のものでしかない」、「そこ
では何か重大な事が行われているのに違いな
いのである」と話は続くのだけれど、睡眠の
本質というのはいまだによく判ってはいない
らしい。ただ、睡眠が単なる休息ではないこ
とは確かということで、こんな「解毒」を体
験しているとそれも自然に納得できる。
その結果なのかどうか、毎朝、目覚まし時
計が鳴る前に私は目を覚ますけれど、そこで
短い夢の断片をいくつか記憶しているように
なった。それは特に快い夢ではないけれど、
心の病が重かった時のように辛い夢というわ
けでもない。ジョイスの「ユリシーズ」みた
いに、本当にどうでもいいとしか思えない日
常の断片が夢のなごりとして記憶される。そ
れは架空の出来事であることもあるし、十年
以上前の日常であったりもする。しかし、そ
んな本当に何でもない夢の断片が、これまで
ずっと探しあぐねてきた重大なことを私に教
えてくれることがある。そんな、知恵の輪が
ほどけるような寝覚めというものを私は初め
て体験している。
この寝覚めもまた、ささやかな「解毒」な
のだと思うけれど、そのおかげで夢と現実、
眠りと目覚めの関係がよりリアルに捉えられ
るようになった気がする。大げさだけど、人
生は決して目覚めている時の現実だけではな
いのだ、ということを思い知らされる。
結局、気象や天変地異、時代の気分、個人
の私生活や来歴、そして無意識に沈む何物か
、そんなものが交差するところに人生が続い
てゆく。そんなとりとめのないことを思うば
かりなのだけれど、せめて天災のない秋の青
空の下で、心の病にふりまわされることなく
そんなことを考えてみたいと思う。本来なら
ば十一月はそれに相応しい、一年で一番落ち
ついた季節のはずで、おびえて過ごすにはと
ても惜しいのだ。
そういえば、毎年秋が深まってくると、私
は村上春樹の「1973年のピンボール」の
ラストシーン、十一月の静かで美しい日曜日
の描写を必ず思い出す。あれはまさに「大い
なる序章」だったのだろう。その後には「羊
をめぐる冒険」が始まり、少し時間を経て「
ダンス・ダンス・ダンス」の大団円を迎える
ことになる。「ピンボール」を初めて読んだ
のはもう二十年も前のことだけど、私の「冒
険」と「ダンス」は今どのあたりに来ている
のだろう、と思う。この連作は意識と無意識
のせめぎあいの物語なのだと私は思うけれど
、私個人としては「ダンス」の主人公の年齢
を越えた今、「風の歌を聴け」から始まる「
私をめぐる冒険」はそろそろ大団円を迎えて
もよいような気がする。それは、意識と無意
識のより洗練された在り方を見い出すという
ことかもしれない。そうなれば、より自由で
成熟した生き方ができそうに思う。今はそれ
を私の四十代への望みとしておきたい。
…もしかしたら、すでにその場所にはたど
りついているのかもしれない。ただ、「私」
から多少なりとも自由になるということが本
当に可能なのかどうか今の私にはよく分から
ない。それを検証するために、今はややつら
い思いをする必要があるのかもしれない。こ
こは階段を一歩ずつ昇るように暮らしてゆく
しかないのだが、「あとには、紐をといて歩
くさわやかな仕事が残されているだけ。」と
いう平出隆の美しい詩句を思い出したりもす
る。しかし、私はそう颯爽とはゆかないだろ
う。それよりも武満徹を聴き返す方がよいか
もしれない。その「ノヴェンバー・ステップ
ス」にそんな武骨さを聴くことが今の私にで
きるだろうか。