写真という通路
九月半ばの私の展覧会「パリ/フランス」
が無事終了して、次の仕事まで少し間がある
ので、その時に売れた写真のプリントをした
り、やたらに本を読んだりして私はひとまず
のんびり過ごしている。しかし、のんびり過
ごすのは実は毎日勤めに出ること以上に大変
なことであったりする。要するに、のんびり
過ごすのも大いなる試練であって、私として
は「うつ」が再発しないようにこれを乗り切
ろうと思っている。
もちろん、写真だけで生活できるようなこ
とはないので、展覧会に来てくれた友人に言
われたように、私は勤め人が定年を迎えるく
らいの年齢になるまでは「セミプロ」であり
続けるのだろうと思う。この言葉の語感が私
は嫌いなのだけれど、意味はまさにそのとお
りだから、べつにそれを嫌う必要もないこと
に思い至る。つまらないことにこだわってい
るとかえって身動きがとれなくなるようであ
る。
展覧会初日には地元の新聞社やテレビ局が
取材に来てくれたけれど、その時私の肩書き
は「アマチュア写真家」ということにしても
らった。「アマチュア」というのは「好きで
打ちこんでいるひと」というのが本来の意味
だから、これは私にぴったりである。「アマ
チュア」という言葉は不当におとしめられて
いるのではないか、というのが私の感想であ
る。
日々の読書のあいまに吉本隆明とか武満徹
とか、自由で高名ではあってもつつましい生
活を送ったひとのエッセイをちらほら読み返
してみたりする。私自身をそこに比肩するつ
もりは無いけれど、以前よりはそんな文章を
自然に読めるようになっている自分を発見し
たりする。
また、村上春樹や丸山健二といった誠実な
小説家たちは、規則正しい生活が執筆には不
可欠と言っていて、一日の中で執筆に当てる
時間はそう多くない、とも言っている。それ
は勤め人の勤務時間のせいぜい半分くらいで
あるらしい。彼らはその限られた時間の中で
密度のある仕事をしているわけで、私自身、
今回売れた写真のプリントや仕上げをしてそ
の密度はよく分かった。それは会社勤めとは
全く質の違う疲労なのである。
たとえ以前と同じ作業であっても、写真が
売れるという経験をするとそこに今までと異
質の重みが生まれる。その重みが金銭という
報酬と引き換えられ、プリントが私の手許か
ら離れてゆく。その時、プリントを買ってく
れたひとの許で、それが可愛がられることを
私は願う。たとえ金銭による報酬が無いとし
ても、他者を巻きこんだ営みを続けてゆく者
を「写真家」と呼ぶのかもしれない。
展覧会など考えられなかったくらい私が「
うつ」に苦しんでいた時、「うつ」は経済原
則と深い関わりがある、という精神科医の本
を読んだことがあったけれど、その主張も今
にしてようやく理解できるような気がする。
労働に値する重みが適切な報酬と交換できな
い時、ひとは「うつ」になってしまうのかも
しれない。この重みを自分の中に溜めこまな
いようにしてゆけば、「うつ」の再発は防げ
るような気がする。もしかしたら、これが今
回の展覧会の最大の教訓になるのかもしれな
い。
ところで、私は「プロ」を嫌悪するあまり
、金銭に限らずいかなる報酬も想定しない孤
独な制作活動、といったものに憧れていたこ
とがあった。しかし、実はこれもアマチュア
リズムの見事なはき違えであったことによう
やく思い至る。作品は信用以外に何の根拠も
無い、という点では貨幣と同じなのだから、
このふたつが交換されるのはそれほど不自然
なことではないのだろう。
また、売れる前提が無くとも、作品の制作
という行為にはどこかしら後ろめたい気持ち
がつきまとうのだが、これは偽札造りの後ろ
めたさと同じなのだと考えればうまく納得で
きる。もしかしたら、財務省で本物のお札を
造っているひともそんな後ろめたさを感じて
いるのかもしれないけれど、写真家や芸術家
の努力というのは、手製のお札を何とか本物
として世間に流通させようとする、いささか
犯罪的な情熱なのかもしれない。それは経済
学のいかがわしさにどこか通じているように
私は思うけれど、裸の王様のようなこの営み
を自ら凝視しつつ楽しめるようになれば素敵
である。そのことが私自身をさらに鍛えてゆ
くのだろう。
報酬とはまさにその過程の象徴であるわけ
だが、確かに報酬を求めなかった写真家はひ
とりとしていなかったし、カフカや宮沢賢治
でさえ決して自分のためだけに制作を続けた
わけではなかった。充分な報酬が得られなか
ったとしても、彼らは生前、周囲からユニー
クな文学者として認知されていたことを忘れ
てはいけない。真に孤独な制作をつらぬこう
とすれば、エミリー・ディキンソンのように
ひたすら自室に閉じこもって詩作を続ける必
要があるわけだが、幸か不幸か私にはずっと
自室に閉じこもる能力は無いし、そこに至上
の価値を見いだすこともできない。ずいぶん
不毛な妄想に私は長年とりつかれていたもの
だとあきれてしまう。
そんなわけで、孤独を自然に受け入れられ
る特別なひとでもない限り、何事も閉じこも
って溜めこむのはよくないようである。フロ
イトに言わせれば、溜めこんで一気に排泄す
るところが糞尿とお金の類似点ということで
、やたらにお金を溜めたがる人間は、幼児期
の肛門性愛が満たされなかったということで
あるらしい。それが高じると、本来の目的で
ある排泄を忘れて便秘を招くことになる。便
秘が心身の健康に非常に悪いのは言うまでも
ないが、私自身、使うあての無い貯金を抱え
て右往左往していた頃のことはもう思い出し
たくない。ビンボーではあっても、私はあの
頃より今の方がよほど幸せである。何事も過
度に所有しようとせずに通過させてゆくのが
気持ち良くて健全なようである。
そこで急に写真の話になるのだが、写真は
記録でも表現でもなくて、万物を通過させて
ゆく透明なメディアではないのだろうか。そ
の意味で、写真は創作よりも翻訳やインタビ
ューに近い営みなのかもしれない。もちろん
、優れた翻訳は至高の芸術であるし、優れた
インタビューは当事者を含む多くのひとびと
の変容をひきおこす。その時、翻訳家やイン
タビュアーは透明な存在でなければならない
けれど、そこで彼らの個性や力量が重要な意
味を持つことは言うまでもない。彼らはその
時、個性を保ちつつ透明になる、という至上
の快楽を味わうのだが、これはまさに「うふ
ふ」と形容するしかない肉体的で豊かなエロ
ティシズムなのである。それは哲学であるか
もしれないし、金儲けの快楽とも似ているか
もしれない。
その快楽を知らない写真家はそれを記録と
か表現とか言うしかないのだろうし、そうで
あれば彼らは写真を所有し溜めこんでゆく他
になす術がないのだろうと思う。写真家が写
真を「分かって欲しい」と思いこむのも、こ
の所有欲と同じような気がする。そうなれば
彼らはもう袋小路に入りこむしかない。
もちろん、自分のプリントやネガを管理す
るのが写真家の仕事であるのは当然だが、そ
れと「写真を所有する」というのは別なこと
であるように思う。写真は現実の複写であっ
て、写真というメディアも写っている現実も
透明な存在にすぎない。透明なものを所有し
ようとしても仕方がないのである。写真を論
じようとする者は、よほど注意深くならない
と写真というメディアと写っている現実を混
同する迷路に入りこむことになる。それが写
真というメディアの魔性なのだが、これを言
い換えれば、写真は異なる現実をつなぐ通路
だから、ということになると思う。
このたとえを続けてみると、通路は覗いた
り通過するものであってひとりで所有するも
のではないし、ましてやそれを所有すること
がその先にある現実を所有することにつなが
るわけでもない。写真家とは、その通路をた
くさん堀り続ける工事人のようなものなのだ
ろうが、それを独占することは許されていな
い。写真家のもうひとつの仕事は、自分が掘
った通路を所有することではなく、風通しの
良いようにそれを管理することであるような
気がする。
写真家の自覚とは、そんな「穴堀り工事人
兼管理人」の自覚なのかもしれない。要する
に、面白い、素敵な穴をたくさん堀り続けよ
う、そしてそれを風通し良く保っておこう、
というのが今の私の抱負なのである。