念写というのは精神力だけで感光材を感光
させたり、思い浮かぶ映像を焼き付ける現象
を言い、学問的には超心理学の研究対象とな
っている。
念写はあらゆる常識を無視した、まことに
非常識な現象なのだけれど、だからそんなこ
とはあり得ない、念写なるものはトリックに
過ぎない、という立場を私はとるつもりはな
い。常識とは非常識の氷山の一角のようなも
のだと思うし、私は別に超能力者ではないけ
れど、たとえ片思いであっても恋に落ちてい
る時に、超能力に近いと思える不思議な偶然
をしばしば体験することはある。
それはともかくとして、念写や超心理学に
少なからず関係があると思われる相対性理論
も量子論も、あるいはフロイトもユングも百
年前には単なる非常識でしかなかった、とい
うことは憶えておいてよいと思う。要するに
人間の、生命の、あるいは宇宙の可能性とい
うのは恐るべきものであって、その全貌を正
視する度量が今の人類には備わっていない、
ということなのだろうと私は思っている。お
そらく、真の秩序とはアナーキーと表現する
しかないとんでもないものなのだろう。
ただ、急にこの文章を書く気になったので
、私の手許には念写や超心理学に関する文献
がわずかしかない。超心理学一般については
湯浅泰雄の「共時性の宇宙観」、そして念写
に言及した文献は宮城音弥の「超能力の世界
」だけである。そんな私がこんな文章を書く
ことをお許し願いたいと思う。
その、「共時性の宇宙観」に述べられてい
たことなのだけれど、超心理学の研究対象と
いうのはしばしば再現性に欠け、客観的な決
定実験が不可能な現象である、ということが
私は忘れられない。ちょうど相対性理論や量
子論で、同一の現象が観測者の立場によって
全く異なる結果となる、というのとどこか似
ているような気もするけれど、超心理学も従
来の科学がよりどころとしてきた「客観的」
という前提を突き崩してしまう際どい学問で
あるらしい。だから、超心理学の研究対象な
ど全くナンセンスなでたらめだ、という見解
にはいちいち反論する必要は無い、と著者は
述べている。超常現象の全てがトリックやた
だの偶然である、という証明は不可能だから
だ。
だから、この本の著者も述べていることな
のだけれど、超常現象がトリックでないこと
を証明したり、統計学的に有意であるかどう
かを探究することだけに血道を上げるのはあ
まり意味のあることではないだろう、と私も
思う。そんな非常識な現象がなぜ、どんな機
構で存在し得るのか、その可能性について探
究する方がずっと有意義で面白いことだと思
うけれど、残念ながら勉強不足のせいで私は
そんな文章をあまり読んだことが無い。
そんな立場から念写を考えてみると、これ
は写真の常識をことごとくひっくり返してし
まうとんでもない代物であることが理解でき
る。その非常識ぶりは、実は写真の本当の可
能性にどこかでつながっているのかもしれな
い、と私は思うけれど、つまらない写真を撮
っている大方の写真家たちにはそれは許しが
たいことなのだろう、ということも想像でき
る。写真のアナーキーな可能性に彼らは耐え
られないのである。
それはともかくとして、写真は目の前に存
在する物しか写らない、という写真の前提を
念写はあっさりと飛び越えてしまっている。
どうしてこんなことが起こり得るのか? 感
光材はある範囲の波長を持った電磁波(光)
にしか感光しないはずである。精神力がどう
してそれを可能にするのか説明できない。仮
に、強烈な精神力が電磁波を発生させ得ると
しても、それがどうしてほぼ可視光にしか感
光しない感光材を感光させるのか説明できな
い。被験者の肉体からビームのように可視光
線が発射されて念写が行われるわけではない
からである。
さらに、念写は単に感光材を感光させるだ
けでなくて、かなり鮮明な画像を現すことも
できる。感光材の前に存在しない画像がどう
して出現し得るのか、たとえ精神力が何らか
の物理的な機構によって単なる感光を可能に
するとしても、被験者が念じる画像を感光材
に現す機構は全く説明できない。
また、これは私の勉強不足なのだけれど、
念写には様々な方法があるようである。被験
者の正面にレンズを装着したカメラを置いて
通常どおりシャッターを切るやりかた、暗闇
の中でむきだしの感光材を前に行うやりかた
、明るい部屋で、遮光された感光材に対して
行うやりかた、そんなところではなかっただ
ろうか。それから、念写で現れる画像はネガ
なのかポジなのか、それも私は失念してしま
った。このへんに、単に念写だけでなくて写
真の、あるいは物理学や心理学の何か重大な
意味が隠されているような気もする。
考えるほどに念写はよく分からない現象な
のだが、そもそも、銀塩の感光材やデジタル
の画素が通常の可視光に感光する理由も、量
子論を持ち出さないと理解できないかなり難
解な現象なのだった。量子論の登場は写真の
発明より半世紀以上後のことだから、当初は
写真が写る、ということ自体が原理のよく分
からない魔法であったことになる。
田中益男の「写真の科学」という本による
と、感光という現象は光の粒子説にもとずく
光電効果によるもの、とのことである。光電
効果について説明するのは私の手にあまるけ
れど、これは若きアインシュタインがノーベ
ル賞を受ける理由になったほどの革新的な大
発見ではあった。
こうなってくると、光の粒子説と波動説の
対立という量子論の根本とか、神はサイコロ
遊びをするか、というボーアとアインシュタ
インの対立とか、二十世紀の物理学の発展を
たどる必要が出てくるのだけれど、それはも
ちろん私の手にあまるので、書店や図書館で
分かりやすい本に目を通してほしいと思う。
私にもそれはよく理解できないのだ。
これはしろうとの無知なのだが、光が波で
あるとして、それがどうして真空中を伝播で
きるのか私には理解できない。波とは物質の
運動であったはずなのに、量子論で言う波は
それを越えた概念の一種のような印象がある
。しかし、音や水面上の波のように、光は波
特有の現象を示すのも事実である。量子論の
波は、虚構と現実をあわせ持つとんでもない
ものなのだろうか。そして、光は前述のよう
に粒子としての性質も示す。つまり、光は観
測の方法によって物質にも概念にもなるぬら
りひょん、と考えてよいのだろうか。
また、光の速度は常に一定である、という
事実からアインシュタインの相対性理論が構
築されたわけだけれど、その前提からは、同
一の現象が観測者によっては同時でない場合
があり得る、という事実ではあるが非常識な
結果が導かれる。観測者によって事実は異な
り、真の「客観」などあり得ない、という事
実が示される。これはアインシュタインが生
涯認めようとしなかった量子論の哲学でもあ
る。何だかよく分からない話ではある。
観測者から離れた、真の「客観」が存在す
るという前提で科学は発展してきたわけだが
、二十世紀になって科学自身がその前提を突
き崩してしまった。さすがに、精神が物質に
影響を与える、ということを認めるまでには
科学は進んでいないようだけれど、ここまで
来ればそこまであと一歩であるように私は思
う。それを認めてしまえば、神秘学までが科
学の領域に含まれてしまうわけだが、精神と
物質の関係というのは今まで考えられていた
ほど単純なものではないらしい、ということ
は私のようなしろうとでも想像がつく。
もちろん、少数ではあっても二十世紀の最
先端の科学者たちはそれに気づいていたよう
である。たとえば、物理学者パウリはユング
が超心理学に踏みこんでゆく伴走者となった
らしい。彼ら理論物理学者の多くは、原爆開
発の責任者になったオッペンハイマーのよう
な世間知らずを別にすれば、古代の哲学者を
思わせる自由人だったのではないだろうか。
そのオッペンハイマーは後に「赤狩り」にあ
って失脚してしまう。
話がずれてしまったけれど、超心理学の研
究対象の中でも、念写や念力はテレパシーや
予知よりも、直接物質にはたらきかける、と
いう点で、この、精神と物質の関係を解きほ
ぐすきっかけになるように私は思う。私とし
ては、ここで唐突に写真というメディアが登
場することに、何かしら写真の本質や可能性
が示唆されているように思えてくる。超心理
学を離れて考えてみても、精神と物質の関係
を考える時、写真ほどそれに深く関わってい
るメディアは他に無いだろうと私は思うのだ
。これこそが写真の果てしなく広大な可能性
ではないのだろうか。
ところで、キース・ジャレットも傾倒して
いるらしいグルジエフという神秘思想家は、
「われわれのすべての感情は「高次な何か」
の痕跡器官である。たとえば、不安は未来を
見通す透視器官、怒りは真の力の器官である
」と述べている。であれば、念写はいったい
何の痕跡器官なのだろうか。あるいは、写真
家の才能とは何の痕跡器官なのだろうか。
写真が発明されたのはたかだか百数十年前
のことなのだが、それ以前に写真の才能はい
ったいどんな形で人類の中に存在していたの
だろうか、あるいは念写に限らず、写真家の
才能とは種としてのヒトの未来にとってどん
な意味があるのだろうか。それが明らかにな
った時、写真家である不安、というやつがも
しかしたら解消されるかもしれない、と私は
感じている。