人は皆この時代に生きなければならないと 、あくせくしているようだが、考えようによ っては、勝手に自分の好きな時代を選んで、 生きることだってできるのである。
辻まことというひとは、もの書きで放浪の
果てに餓死した粋人、辻潤と、後に大杉栄と
ともに憲兵大尉だった甘粕正彦に虐殺された
伊藤野枝の間に生まれた子どもで、画家であ
り、詩人であり、雑文家であり、登山家であ
り、あるいはそのどれにも当たらないような
不思議なひとだったらしい。
彼は、父親の辻潤のように本当の根無し草
になって放浪したわけではなかったし、母親
の伊藤野枝のように官憲に目をつけられる立
場にあったわけでもない。表面上は平穏な市
民生活を送ったように見えるので、その孤独
はかえって分かりづらいのかもしれない。
その人生を、私の恩人のひとりの、さる女
性は敬愛の念をこめて、「ならず者」と呼ん
でおられた。何をやっても名をなすだけの実
力を持ちながら、結局ある肩書きで特定でき
るような人生を送ることがなかった、という
意味だと思う。巨大な迷いを抱えながらも粋
人としての人生を全うしたひと、と私は理解
している。
彼の父親である辻潤の文章は、数年前に文
庫にまとめられてようやく入手できるように
なったが、その解説には、辻潤は小説家でも
詩人でも哲学者でも翻訳家でもなく、もの書
きとしか言いようのない存在であった、と書
かれている。また、彼と恋に落ちて辻まこと
の母となった伊藤野枝にしても、女性解放運
動の闘士、という呼び方は全くふさわしくな
い。自由に生きようとした知的で愛らしく素
直な女性、としか言えないだろう。私はたく
さんの資料に当たったわけではないけれど、
この親子三人は、お互いを愛憎紙一重の感情
で意識しあいながら、懸命に、しかしどこか
しら優雅にそれぞれの時代を生きたのだと思
う。
ただ、辻潤と伊藤野枝の間には、流二とい
うもうひとりの息子がいた。伊藤野枝は彼を
里子に出して大杉栄と同棲したのだが、その
後の流二の消息がよく分からない。私が知っ
ているのは、彼が父親の辻潤の放浪の面倒を
時々みたこと、その葬儀を仕切ったこと、そ
の後北海道へ渡って開拓に従事したこと、兄
のまこととは仲が良かったこと、だけだ。詳
しいことをいずれ調べてみたい。
辻まことを「ならず者」と呼んだ前述の女
性は、私に「あなたには辻まことのような「
ならず者」の気があるから好きなんですよ」
と言って下さった。私はそれほど深い破綻を
きたすような大物ではないので少々こそばゆ
いのだけれど、それでも私はこの親子が好き
だし、伊藤野枝は昔から私の理想の女性のひ
とりである。百科事典で見た彼女のポートレ
ートがとても可愛らしかったのが忘れられな
い。
ところで、辻潤は放浪の果てに餓死したし
、伊藤野枝は他の男と一緒に官憲に虐殺され
た。しかし、辻まことについては冒頭にあげ
た本を読んでみても、その死因はよく分から
ない。癌による病死なのか、それを悟った自
殺なのかはっきりと書かれていないのだ。も
ちろん、それには複雑な事情があるのだろう
と思う。
いずれにせよ、辻まことは両親ほど過激な
人生を送ることはなかったわけだが、逆に言
えば、両親が過激な人生を送ったがために、
彼にはそれができなかったのではないか、と
いう気がする。彼は、一応平穏に見える人生
を送りながら、静かに孤独と向き合う道を選
んだのかもしれない。つまり、過激に走るこ
となく自由に生きるということが、辻まこと
の両親や世間へのひそかな返礼だった、と私
は考えてみたくなる。
それについて、今の私は何も言葉を持たな
いのだけれど、「ならず者」、つまり自由人
というのはだらしなく見えるように生きてゆ
くものなのだな、ということは少しずつ分か
ってきた。それが「ならず者」の誠実なのか
もしれない。ただし、その批判と叱責は甘ん
じて受ける必要がある。彼らは無力でなけれ
ばならないのだ。それは地獄なのか、平安な
桃源郷なのか、私には分からない。
話は変わるけれど、まんが評論家の村上知
彦が、私の大好きな坂田靖子のまんがについ
て、もう若くもないのにぶらぶらしている独
身男がその主人公に選ばれることが多い、と
書いていたのが忘れられない。
読んでみればすぐに分かることだが、この
、坂田まんがの主人公たちもまぎれもない「
ならず者」であり自由人である。しかし、彼
らは実に軽やかに生き続け、異界の住人とや
さしく交感し続ける。現実の貧乏も不自由も
全く意に介していないのだ。もちろん彼らは
開き直っているわけでもない。素直につつま
しく生きているだけだ。もっとも、現実の辻
親子のような「ならず者」たちもこんなふう
にやさしく素直でつつましいひとたちだった
のかもしれない。そこにわざわざ地獄という
幻想を見る必要も無いのだろうか。
ともあれ、坂田靖子のまんがは、「ならず
者」として生きる希望を私に伝えてくれるし
、その不思議な楽しみをひととわかちあう可
能性をも示してくれる。「ならず者」はいつ
の時代でも可能だし、とても素敵なことなの
だよ、と私に教えてくれるのだ。それはべつ
に世捨て人というわけでもなくて、カレーラ
イスの福神漬けのような形で世間に必要とさ
れる存在でもあるのだろう、という気がして
くる。
ところで、近代日本を振り返ってみると、
「ならず者」はべつに辻親子だけではないと
思う。私が気づいただけでも、種田山頭火と
か宮沢賢治とか何人かの「ならず者」を数え
ることができる。しかし、私が好感を持てる
のは今のところ、辻親子の他には内田百鬼園
くらいしかいない。
もちろん山頭火にせよ賢治にせよ、本人に
はどうしようもない事情があったことは私も
知っている。それでも、その作品や生き方に
は救いが見えなくて私は好きになれない。ど
こか行き止まりを思わせるところがあって息
苦しい。死者を鞭打つようで申し訳ないけれ
ど、このふたりには女性を愛する才能が欠け
ていたのではないか、と私は思う。山頭火は
幼い頃の母の自殺のために、暖かい愛情が凍
りついたまま性欲が残ってしまった不幸なひ
とだったし、賢治には透明な人類愛はあって
も、肉体を持って息づく女性を愛する色気は
無かったように思う。
要するに、優雅に「ならず者」として生き
続けるには、ひと(異性)を愛する才能が必
要なのではないか、という気がする。暗さを
前面に押し出してしまうと、ひとを愛するの
は難しくなるように思う。ごまかすことなく
暗さを持ちこたえる気力や体力が必要になる
のだ。
そうであれば、写真家というのは「ならず
者」にとって最もふさわしい在り様なのかも
しれない。優雅で、だらしなくて、厳しくて
、自由で、色気があって、特権的である。私
もそうありたいと思う。
おかあさんの考えかたは、とても正しいと は思えません。だって、もしそうなら、自分 自身が不幸のなかをさまよっている場合、い ったいどうふるまったらいいんでしょう。お 手上げじゃありませんか。それとは逆にわた しは、どんな不幸のなかにも、つねに美しい ものが残っているということを発見しました 。それを探す気になりさえすれば、それだけ 多くの美しいもの、多くの幸福が見つかり、 ひとは心の調和をとりもどすでしょう。そし て幸福なひとはだれでも、ほかのひとまで幸 福にしてくれます。それだけの勇気と信念と を持つひとは、けっして不幸に押しつぶされ たりはしないのです。
一言つけ加えると、この本を読む時、彼女
が耳もとでくすくす微笑みながら話しかけて
くれるような温もりを、今でもはっきり感じ
ることができる。そして不思議なことに、彼
女は無口で気まぐれに見える私の恋人につい
てもたくさんのことを教えてくれる。
週末とは言え、昼間からお酒を飲むわけに
もゆかないので、とりあえず、ポカリスエッ
トを飲んで時間を稼いでいます。