馬鹿は死んでも直らない、のか?

アメリカとイギリスがイラクに攻めこんで いる。この文章を書いている今は開戦後八日 目で、戦争が最初の予想よりも長くなるので はないか、と言われ始めたところだ。
 結局、好きでやっているから戦争はやめら れないのかなあ、というのが今の私の醒めた 感想である。何事も、当事者が好きでやって いることは絶対にやめられないし他人がとめ ることもできない。その点では、中島らもが ドラッグをやめられずに捕まるのも、写真家 が写真をやめられないのも同じことだと思う 。それについて、当事者の苦労話なるものを 信用してはいけないのだ。
 人間のやることは全てそういう構造になっ ているようで、河合隼雄さんが言っていたよ うに、悪いと分かっていてもそれに代わる何 かが見いだせない限りやめることはできない 。わかっちゃいるけどやめられない、これは 普遍的な真理のようである。
 わかっちゃいるけどやめられない、と歌っ た植木等がお寺の息子であることは比較的よ く知られているが、彼の父である僧、植木徹 誠(うえき・てつじょう)が部落解放運動に 尽力し、戦時中の特高警察の拷問にも屈しな かった人物であったことはほとんど知られて いないようだ。
 その生涯は、植木等の著書「夢を食いつづ けた男 おやじ徹誠一代記」に詳しい。植木 等は以前、テレビで「戦時中に「戦争は大量 殺人だ」と明言したのはうちのおやじだけだ 」と語っていたけれど、この本を読むと確か にそのとおりだと思う。天皇陛下万歳、と叫 んで死ぬのが最高の美徳とされた時代にあっ て、彼は出征させられる兵士に対して「必ず 生きて帰ってこい、敵もなるべく殺すな」と 堂々と語りかけたそうである。そして彼は特 高警察に捕まって拷問を受けるのだが、その 詳細については多くを語ろうとしなかった。 歴史というものは、そんなたとえようもなく 重い沈黙によってかたちづくられているのだ ろうと私は思う。
 ただ、植木徹誠は決して清廉潔癖な聖者で あったわけではなく、若い頃は義太夫語りに なりたいと思いつめたり、明治生まれらしく 、男尊女卑を当然のこととして生活した男で もあった。その辺のところは息子も見逃して はいない。要するに彼は大変な男だったわけ だが、人間くさい、という形容はこんなひと のためにあるのだろうという気がする。存分 に生きた、という手応えのある人生とはこう いうものなのかもしれない。
 私は彼を尊敬しているわけではないけれど 、その八十三歳の死に際がとても素敵だ。死 を悟ると彼は、家族や親類縁者を枕元に集め て「ありがとう、ありがとう、おかげで楽し い人生を送らせてもらった」と言い遺して亡 くなったという。私もそんなふうに死んでみ たい。
 その植木徹誠が、息子の歌った「スーダラ 節」の歌詞について、わかっちゃいるけどや められない、というのは親鸞の教えに通じる ものがある、人間の弱さを言い当てている、 青島君はなかなかの詞を作った、と語ったと いう。
 親鸞の時代から現代に至るまで、人間の弱 さも愚かさも面白さも温もりも、何も変わっ ていないということなのだろう。養老孟司先 生の言うように、人間の脳の構造はクロマニ ヨン人以来数万年の間変わっていないのだか ら、人間のやることに根本的な変化はない、 ということになる。そうでなければ、我々が クロマニヨン人の描いた洞窟の壁画や数千年 前の古典文学に感銘を受けることもあり得な い。ちなみに私は古代オリエントのギルガメ シュ叙事詩が好きだ。ギリシャ時代をさらに さかのぼる最古の文学であり、その舞台は今 戦争が起きているイラクのティグリス・ユー フラテス川沿いである。
 ギルガメシュ叙事詩には、技術文明に毒さ れた現代人が失ってしまった宇宙的な声があ ふれている。今、せこいハイテク戦争が仕掛 けられている場所は、数千年前はとてつもな く雄大な神話の舞台だったのだ。そんな土地 を、たかだか数百年の歴史しかない西洋技術 文明が制圧できるはずはないのである。これ は、イラクの現政権を支持するとかいうのと は全く別の話である。歴史は、そこに住むひ とびとの意思とはとりあえず無関係に存在し て、浅はかな異文明の侵略をも現政権の横暴 をもいつかその闇の中に呑みこんでいくだろ う。それはちょうど、日本の天皇制に似てい るかもしれない。歴史は、やさしさと邪悪さ の双方を持ち合わせているわけである。
 話が次々に飛んでゆくけれど、ランボーの 散文詩集「イリュミナシオン」の冒頭を飾る 「大洪水のあと」を私は思い出す。大洪水や 、それにたとえられる戦争の後にそんな歴史 の本性が顔を出す。それは人智を越えて美し いのかもしれないけれど、人類の耐えがたい 愚かさや残酷さに裏打ちされていることを忘 れるわけにはいかない。
 結局、馬鹿は死んでも直らない、というこ となのだろうか。今回の戦争を、地球外に存 在する知性はひっそりと観察しているのだろ うが、彼らはおそらく、人間が異なる巣の蟻 どうしの闘争をながめるように見ているのだ ろう、と私は思う。恒星間や銀河間を飛翔す るほどの知性から見れば、人類は蟻のような ものなのだろう。それは、わざわざ滅ぼすほ どの価値もないし支配するほどの価値もない 。もちろん啓蒙するほどの価値もない。人間 が蟻に対してそう思うのと同じだろう。
 蟻が人間の存在を理解できないように、我 々も彼らの存在を理解できない。彼らは我々 の考えてきた「神」とも全く異なるだろう。 そして、人類は恒星間を飛翔する知性には絶 対になれない。人間の百年程度の寿命は、広 大な宇宙空間を飛翔するにはあまりにも短す ぎる。しょせん人類は戦争がやめられない蟻 なのである。
 しかし、蟻も宇宙の法則に従って存在して いるのだし、宇宙の声を聴くことはできるの である。戦争を肯定する必要は微塵もないが 、我々が蟻であることを恥じる必要はない。 文句を言いたければ、我々の愚かさを許容す るほど不完全な宇宙を存在させた「宇宙意思 」に対してたれればよい。もしかしたら、そ れが芸術の使命なのかもしれない。
 それにしても、今回の戦争に使われる費用 で一体どれだけのことができただろうか。村 上龍の絵本「あの金で何が買えたか」を私は 思い出す。この費用でエイズの撲滅も、野生 生物の保護も、宇宙開発も何でもできたはず なのだ。
 もし、アポロの月着陸以後に国際紛争が無 くなっていたら、人類は今頃太陽系の各惑星 に定住を始めるくらいにはなっていただろう 。ところが現在、人類はスペースシャトルさ え安全に飛ばすことができない。本当になさ けないと思う。これでは異星人にも宇宙意思 にも顔向けできないではないか。軍備や戦争 が文明を発展させる、という時代はとうに終 わっている。蟻は蟻でも人類は最低の蟻のよ うである。やはり、馬鹿は死んでも直らない 、のか。



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