この春で私が長野県に住み始めてまる八年
、上田市に住みついてからでも早いものでま
る七年になる。その一、二か月前(阪神淡路
大震災があった頃だ)までは長野県に住むこ
となど全く考えていなかったし、長野県に足
を踏み入れたことさえほとんどなかった。私
はずっとこだわり続けていた新潟市からはじ
き飛ばされるようにその隣県にやって来たの
だが、長野県は日本を代表する田舎のひとつ
でありながら、何の関わりもないよそ者がふ
らりとやってきて住みつくことが多い場所だ
ということもその後知った。
海辺の新潟市や三陸に近い岩手県盛岡市に
縁がある私にしてみれば、海のかおりから遠
くて美味しい魚が手に入りがたいのが玉に瑕
だが、それを別にすれば、私のような人間が
長く住むには長野県は良い所みたいだ。最初
に住んだ伊那市も捨てがたかったけれど、上
田市は交通の便も良くてどこにでも行きやす
い。何もないわりには風情があって温泉もあ
る。また、上田市には細江英公先生や立木義
浩先生や浅井慎平さんが時折来られる。田舎
であって田舎でないようなところもないでは
ない。そして、私が上田市に特別の愛着を抱
くのも、盛岡市の私の実家のあたりが上田と
呼ばれていたり、材木町とか松尾町とか同じ
地名がふたつの町にあったり、気候や町の風
情も何となく似ていたりして心身が錯覚をお
こしているせいだと思う。
気候といえば、長野県、特に上田市近辺は
寒暖の差が激しい。雪は結構降るけれど、降
水量の少なさは瀬戸内なみだそうである。雨
が少ないと寒暖の差が余計激しく感じられる
。そして、上田市近辺の冬が寒いのは県外の
ひとも承知しているけれど、夏の昼間は東京
なみに暑いのである。しかし、夜は比較的涼
しくなるので冷房なしでも暮らせないことは
ない。私にとっては大変ありがたい。
寒暖の差が激しいということは、四季の違
いがとてもはっきりしているということでも
ある。春夏秋冬そして梅雨、日本には五季あ
ると言った気象学者がいたそうだが、その言
葉が実感できるのだ。お天気ニュースで紹介
される、大寒とか啓蟄という季節をくぎる言
葉も実感できる。また、空気が澄んでいて夜
空が暗いので、住宅地でも星座がはっきりよ
みとれる。天上の星の営みと地上の自然の営
みが呼応しているのがきちんと感じとれるの
だ。
身近なところから思い出してみると、私は
部屋の前の空き地を、大家さんの許可をもら
って花壇のような菜園のような雑草園にして
いるのだが、その移ろいは毎年きちんと決ま
っていることが分かる。たとえば、秋に植え
た黄色い花のクロッカスが咲き始めるのは二
月二八日頃で、その直後には必ずみぞれが降
る。私にとってはそれが春の始まりである。
レッドクローバーの花が満開になるのは五月
二日頃で、その直前には必ず寒の戻りがある
。梅雨が本降りになる前には雨だれに濡れて
スカシユリが咲く。盛夏を迎えた七月二八日
の夜にはこおろぎが鳴き始める。毎年注意し
ているのだが、こおろぎが鳴き始める日取り
は二日とずれたことがない。不思議なものだ
。これが秋の始まりである。そして十月三十
日頃にはバジルが枯れ、初霜が降りる…
話は変わるけれど、家庭という言葉にはど
ういうわけか庭という文字が含まれている。
庭が無ければ家ではないのだろうか?
私はかねがね不思議に思ってきたけれど、
これは閉鎖的な単位である家族を自然の営み
に向かって開く意味があるのかもしれない、
と今思い至った。肉親どうしの葛藤で内に内
にこもって息苦しくなってゆく家(ウチ)を
、自然の営みに向けて開くことで初めて家族
は家庭になるのかもしれない。洋の東西を問
わず庭は自然の象徴であり、宇宙のモデルで
あった。つまり、家庭という言葉は人間どう
しの営みが自然をとりこんで続いてゆくこと
を意味しているのではないだろうか。
そして、そんな場所なら私はずっと住んで
いられるような気がする。時々ふらりと旅に
出ることはあるのだろうが、ムーミンパパの
ように私はいずれそこに戻って来るのだろう
。誰かが言っていたように、ムーミンたちは
本当に自然に暮らしているので、自分たちが
幸せであるということさえ知らないのだ。
宇宙の営みを体内時計のように自然に感じ
続けているひとたちが暮らす場所、それを私
は家庭と呼びたいと思う。
話がずいぶんずれてしまったけれど、今、
長い冬がようやく終わりにさしかかり、春の
気配が微かに感じられるようになると、冬の
間ずっと眠っていた感覚が再び始動するのを
覚える。それを扱いかねていたころは、その
感覚を「うつ」への転落のきっかけにしてし
まったこともあったけれど、おそらくもう大
丈夫ではないかと思う。たとえて言えば、私
の中で何かが家から庭に変化したように感じ
るからだ。つまり、自然の営みに向かって開
かれた自我というものを私はようやく獲得し
つつあるように思う。逆に考えれば、これが
私にとっての「うつ」の意味だったのかもし
れない。自然を、他者を、そして自己を柔軟
に受け入れる新しい自我に脱皮するために、
私には「うつ」の苦痛がどうしても必要だっ
た、ということになるのだろうか。
…季節がめぐり、五感を呼び覚ます地上の
うつろいとともに天上の星座もうつろってゆ
く。人間関係だってきっと同じなのだろう。
そう考えてみると、占星術というものにもそ
れなりの根拠があるのかもしれない。精神世
界に閉じこもることなく、それを考えてみる
のも面白そうな気がしている。