藤原紀香が戦火の地、アフガニスタンに行
って撮った写真集「カンダクゥ」が出た。ひ
とびとのまなざし、悲しみ、そして撮影した
彼女の心の震えが素直に伝わってくる素晴ら
しい写真集だと思う。写真を見てもらえばわ
かるが、これは彼女の余技などではなくて、
藤原紀香という写真家の全力をかたむけた労
作なのである。その力に一般のひとは素直に
感動している。ひとびとの写真を見る力は健
全だと言うべきであろう。
しかし、この仕事についてはその筋からず
いぶんと批判が出ているらしい。いわく、「
有名人のネームバリューでやった仕事にすぎ
ない」とか「大勢のスタッフをひき連れて行
って撮ったって仕方ないんじゃない」とか「
地道に取材している報道写真家に失礼だ」と
か…
予想どおりの批判と言うべきだろう。批判
というほどのこともない、ただの嫌味、負け
惜しみである。プロを名乗る連中が、いかに
知識や経験やテクニックを持っていようとも
、それに見合うだけの仕事ができなければ全
くの無意味である。そんな当然のことをわき
まえていない井の中の蛙が実に多いわけであ
る。写真家はアホがなる、と陰口をたたかれ
てもこれでは仕方がない。やっぱり写真界っ
て嫌な業界だなあ、と私は改めて思う。
カメラを持った者は、巨匠であろうとしろ
うとであろうとみな対等である。それが写真
の優しさでありこの上ない厳しさである。そ
れを片時も忘れずにいることが写真家として
のプライドでもある。もちろん、真の巨匠は
それをわきまえておられるのでそんな悪口は
言わない。
かつて、と言っていいのであろうが、写真
評論家であった多木浩二が雑誌「デジャ・ヴ
ュ」のプロヴォーク特集号で、日本の写真界
というものに対してものすごく嫌悪感を抱い
た、そのために個々の写真家について論じる
ことを意図的に切り捨ててきた、そうしなけ
れば写真界の中で生きてしまう危険があった
、と語っていたのを私は思い出した。
ビートたけしが、この正月のインタビュー
で、日本にはあらゆる世界に腐った構造があ
る、誰かの口利きが無いと何事も始まらない
、と語っていたけれど、写真の世界に関して
はそれは今に始まったことではないのだろう
。だから、賢いひとはそこから離れたところ
に身を置くことになるのである。
そんなわけで、「カンダクゥ」について、
あるいは藤原紀香がどんな写真家であるのか
、といったことを論じる者はいないのだろう
と私は思う。写真界に棲息する者がそれをす
れば、写真界から村八分を食らうからだ。不
毛である。
唐突な例えだけれど、文芸評論家を名乗る
者が、詩をやめて砂漠の商人となったランボ
ーについて語ることができないのと同じなの
である。その業界を突破する仕事を粋(いき
)に批評するのはプロにとって至難の技であ
って、あえてそれをしようとすれば、批評家
はモーリス・ブランショのように顔写真を公
開せずに地下に潜って活動することが必要に
なる。多木浩二は別にしても、今の日本にブ
ランショの活動に値する批評家がはたしてい
るのだろうか。私はあまり肌が合わないけれ
ど、せいぜい吉本隆明や平岡正明くらいでは
あるまいか。
話を写真に戻すと、篠山紀信もひとびとか
ら圧倒的に支持されながら、写真界から批評
されることの少ない巨匠である。大竹昭子は
その理由を、彼は芸術ではなく芸能に近いと
ころにいるからだ、と論じている。芸能は芸
術を批評する枠組みからはみ出てしまうので
ある。業界をはみ出る真の芸術と、ひとびと
のそばにある芸能はこんなふうに意外に近い
距離にある。そして、篠山は芸術と芸能をと
もにこなせる数少ない写真家である。
で、私が思ったのは、もし篠山紀信がスタ
ッフをひき連れてアフガニスタンに飛んで、
「カンダクゥ」のように撮ったらはたして写
真界は何と言うだろうか、ということである
。篠山の今までの膨大な仕事と同様、やはり
黙殺するのだろうか。
「カンダクゥ」を見ていると、私は篠山紀
信が七十年代にインドやシルクロードを旅し
て撮った写真を思い出すのである。もちろん
藤原紀香に篠山の技巧は無いのだが、ふたり
の視線は実によく似ているように私には思え
る。
篠山紀信の写真が超絶的な技巧と、それと
正反対の、いわばしろうとの視線のふたつを
合わせ持っていることを思い出せばよいのか
もしれない。
飯沢耕太郎が中平卓馬論の中で、篠山紀信
の写真について、「世界を「私物化」するこ
となく写真におさめていく方法を、思いがけ
ないやり方で実現していた」と述べている。
篠山との出会いの後、中平は記憶喪失を経て
再起するわけだが、写真にとって神話的と言
えるふたりの出会いと病の後で中平が到達し
た境地を飯沢は「純粋写真家」、あるいは「
全身写真家」と形容している。これについて
さらに引用すると、…世界に対して「受容的
」でありながら、一個の独立した“私”とし
て屹立し、純粋な曇りのない眼差しで被写体
を等価に見つめ、「事物の思考と私の思考と
の共同作業」による「植物図鑑」を提示して
いく「純粋写真家」、あるいは「全身写真家
」…と続いている。
藤原紀香は中平卓馬のような「純粋写真家
」ではないし、「カンダクゥ」は中平が言う
「植物図鑑」でもない。それは写真家の感情
を排した「事物の論理」を提示する再起後の
中平の写真とは全く異なる。しかし「カンダ
クゥ」において彼女は「全身写真家」である
ことは間違いない。アフガニスタンの光と風
と悲しみを全身で受け止めて、「私」を空洞
にして世界を受入れ、両者を鳴り響かせてい
るのである。ここには過酷な世界と拮抗する
やさしく強靱な「私」がある。つまり、写真
家にとって理想の「私」のありようがここに
実現されていると言えるだろう。これは「カ
ンダクゥ」に嫌味を言う二流の報道写真家が
行う浅はかな自己主張でもないし空虚な記録
でもない。それをはるかに越えた写真の理想
である。
と言ってみても、そんなことは写真界と無
縁な藤原紀香やそれを見る我々にはどうでも
いいことなのだろう。この写真が持つ力とや
さしさは言葉を越えて雄弁なのだから。一触
即発の戦地に来て、こんなに素直に撮れる写
真家がはたして他にいるだろうか。それはひ
とりで行こうがスタッフを連れて行こうが、
あるいはプロであろうがしろうとであろうが
関係ないことではないかと私は思う。
本当に、「カンダクゥ」についていったい
何を語ればよいのだろう。黙って写真を見て
、あるいは彼女の文章を読んで、としか言い
ようがないのだ。
それを可能にしているのは、彼女を支える
スタッフであり、彼女が使うカメラ、フジの
ファインピックスであり、藤原紀香のタレン
トとしての才能と経験なのだろう。
そして、そんな写真が撮れるのは彼女が写
真界で生きる必要がない、本来の意味でのア
マチュアだからなのだろう。写真以外の世界
で存分に生きているからこそ、カメラを持っ
た時にその才能と経験がこんなふうに生きる
のだと思う。写真はアマチュアリズムだ、と
いう真理がここにも現れている。
テレビのインタビューで語っていたように
、藤原紀香はこれからも撮り続けるだろう。
それを私はとても心強く思うけれど、正直に
自問すると私も怖いのだ。ではあなたはいっ
たい何が撮れるの、と彼女に問い詰められて
いるようにも思えるからだ。
しかし、それを乗り越えて無防備に撮り続
けるのがまた写真家というものだろう。のほ
ほんと、できればやさしく、私は撮り続けて
いきたいと思う。それを教えてくれた藤原紀
香に、感謝(タシャクール)。
「カンダクゥ」は現地の言葉で「笑顔で」 、この本の最後に記されている「タシャクー ル」は「ありがとう」という意味だそうです。