大阪で、小学校に侵入して子どもたちを殺
傷した男の死刑が確定した。本人は三か月以
内の死刑執行を望んでいるそうである。彼に
反省の気持ちは全く無いらしい。裁判の当初
から、彼は「インテリの子どもを殺せば確実
に死刑になれる」と言っていた。彼の顔つき
は冷たく落ちつき払っていて、すでにこの世
のものとは思われない。
被害者の遺族のコメントに「彼から反省の
言葉が聞けるとは考えていなかったので、こ
れでほっとした」というのがあった。こんな
人間には一刻も早くこの世から消え去っても
らいたい、ということだろうか。しかし、考
えてみると、あれだけの殺人を犯しておいて
、捕まってすぐに改心して涙ながらに反省の
弁を述べたとして、そんな人間の言動が果し
て説得力を持つだろうか。環境に応じてころ
ころ人格を変える人間は世間にたくさんいる
けれど、裁判の場でもそれでいいのかどうか
、私には判らない。犯した罪が重ければ重い
ほど、それを悟って反省するには時間がかか
るのではないだろうか。
ところで、死刑という刑罰は死刑囚に死の
恐怖を与えることが目的なのだろうか。それ
とも、法も常識もはるかに越えた悪魔のよう
な人間をこの世から抹殺するのが目的なのだ
ろうか。少なくとも、近世までの拷問のよう
な死刑執行が無い現在、死に至る苦痛やその
恐怖を死刑囚に与えることはその目的ではな
くなっている。また、死刑は犯罪の抑止力に
なる、という考え方もあって、私は全くそう
は思わないけれど、世間にはそう考える人も
多いようだから、この三つが死刑を存続させ
ている要因なのだろう。死刑は必要悪だ、と
いうことになるのかもしれない。
ただ、死の恐怖、というものも考えてみれ
ばよく分からない。死んだらどうなるのか、
確実なことを知っているひとは誰もいないか
らだ。だから恐怖なのだ、と言ってしまえば
それまでだが、もしかしたら死は快楽である
かもしれないし、死後は誰もが極楽に行くの
かもしれない。そして、死刑は加害者を被害
者のいる世界に再び送りこむ行為であるかも
しれないのだ。この可能性を確実に否定でき
るひとは誰もいない。あの、宅間守という男
はそれを確信しているのかもしれない。麻原
彰晃もそうかもしれない。それでも死刑は有
効だろうか。
また、高速道路で飲酒運転のトラックに追
突されて幼い娘を失った母親が、飲酒運転の
罰が軽すぎる、と訴えていたことがあった。
彼女の運動のおかげで飲酒運転の罰は大幅に
重くなって、これは大変に結構なことだと私
も思うけれど、この母親は、加害者を死刑に
してやりたい、というようなことを口走って
いたと私は記憶している。その時、テレビに
映し出された彼女の顔はもはや人間のもので
はなかった。それは鬼の顔と言ってよかった
と思う。
いかなる理由であろうとも、他人を憎み、
その死を心から望むようになると、人間はも
はや人間ではなくなってしまう。私はそれを
改めて思い知らされた。深い憎しみは人間を
鬼に変えてしまうのだ。
他人事だからおまえはそんなことを言って
いられるのだ、という叱責も当然あると思う
。では、死刑囚を殺さなければならない刑務
官の苦悩はどうなるのだろう。彼らは、おそ
らく会って話をしたこともない裁判官が決定
し、赤の他人に過ぎない法務大臣が命令した
殺人を実行しなければならないのだ。死刑を
存続させるのなら、せめて法務大臣や被害者
の遺族が直接死刑を執行するように改めるべ
きだと私は思う。人間の生命を絶つという行
為を、抽象的な官僚制度に任せるのは間違っ
ているはずだ。その点では、復讐を前提とし
た近代までの死刑の方が道理にかなっている
と思う。死刑は殺人なのだから、刑務官とい
う人間にそれを行わせるべきではない。
死刑囚と日常的に接している刑務官にとっ
て、おそらく死刑囚は鬼ではなくて人間だろ
うと思う。殺人を犯す時まで彼らは確実に鬼
であるが、その異様な緊張がその後彼らが死
刑になる瞬間までずっと持続するわけではな
いのではないかと私は思う。多かれ少なかれ
彼らは人間に戻る時があるだろう。そして、
いみじくも死刑は法律上の責任能力が認めら
れた「人間」に下されるのである。これも死
刑制度の矛盾だと私は思うが、法律上、死刑
は人間に下される刑罰であって、責任能力の
無い「鬼」に下されることはない。
いずれにせよ、殺人は人間に許される行為
ではないのだ。だから、死刑はそれを命令す
る法務大臣という鬼か、実際に鬼である遺族
に行わせるのが正しいだろう。
そこで遺族がためらうようであれば、死刑
は当然中止である。憎しみや悲しみは殺人と
いう復讐によって癒されるものではない、と
いうことに気づけば、彼らは鬼から人間に戻
る。そして、両者とも苦悩を抱えて生きる道
を選ぶことになる。鬼は苦悩と共に生きるこ
とはしない。それは人間の特権であるかもし
れないのだ。
実は、えらそうなことを書いている私も、
かつて強烈な殺意を抱いていたことがある。
もちろん実行に移すことはなかったけれど、
あの時の私は確かに鬼だったと今になってよ
うやくふり返ることができる。
可愛さ余って憎さ百倍、と言うけれど、殺
意だけが強烈に頭の中に渦を巻いていて、い
ったい誰を殺したいのかいまひとつよく分か
らない。女なのか、男なのか、自分自身なの
か、それともその全員なのか。あて名の無い
手紙、というとロマンチックだが、その時私
にあったのは行き先がよく分からない殺意だ
った。私自身、生きているのがあれほど辛か
ったことはなかった。このまま死んでしまえ
たらどんなに楽だろうと思い続けていた。
だから、嫉妬というものを、憎しみや悲し
みというものを、鬼の気持ちというものを、
私は理解できるような気がするのだ。それは
ひとを狂わせ、心身を燃やし尽くす。そんな
私の状態を、もちろん女も男も気づいていた
と思うけれど、幸いなことに何事も起こらず
に済んだ。ふたりに感謝するべきだと今にし
て思う。私は本当に危ない橋を渡っていたの
だった。
その直後、あれは十一月だったと思うが、
昼下がりに私はひとりで街をふらふら歩いて
いた。殺意がひとまず去って、私は虚脱状態
にあったのだと思う。空は青く澄みきってい
て、死ぬには良い日和だなとぼんやり考えて
いた。今死んだら、魂がすうっと空高く昇っ
ていけそうに思った。いつでも死ねるように
致死量の毒を持ち歩いている、という友人の
気持ちが何となく分かるような気がした。辛
いから死んでしまいたい、というよりも、こ
の肉体を離れて自由になってしまいたい、と
いう気持ちのほうが強かったと思う。そうす
れば、遠く離れていってしまう彼女をずっと
見守ってあげることもできるはずなのだ。
その時、たまたま街で見たテレビの「徹子
の部屋」に篠山紀信さんが出ていて、黒柳徹
子さんとおしゃべりをしていた。不思議なこ
とに、私はそれを見ているうちにやや気力が
戻ってきた。写真をやろうという人間がこん
なことで死んではいけないのだ、と私は思っ
た。急に腹が減ってきて炒飯を食べたのを憶
えている。篠山さんはもしかしたら私の命の
恩人なのかもしれない。もし、いつかお会い
できるならば、お礼を申し上げたい。
今思えば、写真はこの世とあの世をつなぐ
メディアである。死んでしまえばもうこの世
に戻ることはできないけれど、生きて写真を
続けていれば、この世にいながらあの世へつ
ながる通路を確保できるかもしれない。そん
な可能性が捨てきれないのであれば、自ら死
を選ぶのは間違っている。それが私をこの世
に引き戻した力だと思う。
その後、事が決定的に破局した時、私は二
晩くらい眠れなくなり、その数日後に高熱を
出して一週間くらい寝こんだ。そこから徐々
に回復する過程で、私は少しづつ鬼から人間
の顔に戻っていった。事情を知らない知り合
いもそれを指摘してくれた。
そして、私がカラーで撮り始めたのはその
時だった。写真を撮りたい、と私は切実に思
った。できることなら、つまらない作為や思
い入れを排除して生きていきたい、そんなふ
うに世界を見てみたい、と思った。そして、
撮り続けるうちに感じたのが、いつかどこか
で書いた「撮るたびに耳を澄ますような感覚
」だった。それは明るみを見るというよりも
、せせらぎの水音に聴きいるのに似ていたよ
うな気がする。
それから数年経って、その時の事情を職場
で一緒になったある年配の女性に打ち明けた
ことがある。彼女はもうお孫さんがいるおば
あちゃんだったが、○○小町と呼ばれるにふ
さわしい品と落ちつきのある方だった。彼女
は「それだけの理由でひとを殺したり死んで
しまうひとは世の中にたくさんいるわよ、よ
くがんばったわね」と言って下さった。後日
お手紙を差し上げた森山大道先生を別にすれ
ば、私の気持ちを理解してくれたのはその方
しかいない。もう書いてもいいと思うけれど
、森山先生には、お礼に「クリフォード・ブ
ラウン ウイズ ストリングス」をプレゼン
トさせていただいた。森山先生もそのCDを
気に入って下さった。素直に嬉しかった。
結局、こんな重い話をどんなふうに終わら
せればよいのか私には分からない。
ただ、坂田靖子の連作長編まんが「バジル
氏の優雅な生活」で、主人公のバジル氏が悪
徳弁護士に向かって「もし心底人を殺す気に
なった時には」「法律など何の妨げにもなら
ぬ事を覚えておくんだね」と言うせりふを、
また、部屋に忍び込んできた刺客に対して「
このくらいの脅しで口を封じられると本当に
信じているのか?」「そのようすじゃ本当の
悪党になるのは無理だな」「そんなふうに人
を信じたがっているようじゃね…」と言う場
面を私はとても素敵に思っている、というこ
とを書くしかない。