音楽の写真のこと

中平卓馬の特集をしていたのでひさしぶり に「アサヒカメラ」を買った。しかし、今回 書きたいのは中平卓馬のことではない。
 「アサヒカメラ」のように九二〇円もする 高い雑誌を買うと、私はもとを取ろうとして 隅から隅まで読む。コラムから広告から作例 写真の背景まで目を凝らして読み、見る。た まにしか買わない雑誌だからそれがとても面 白い。業界に疎い私には良い勉強にも刺激に もなる。
 ひとの悪口は言わないように私は心掛けて いるのだけれど、その中に、ある音楽写真家 の特集があった。ふーん、というのが私の感 想である。こんなもんか、と言ったら怒られ るのかな。
 はっきり言ってつまらない。でも、自分が 写真を撮り続けている限り、他人がどんな写 真を撮ろうが何の関係も無い。文句を言う筋 合いは何も無い。最近、私は不思議なくらい それをよく納得できる。それでも、私は音楽 も写真も同じくらい好きなので、余計なおせ っかいと知りつつも言ってみたいことはいく つかある。
 実は写真を始めて以来、私が一番参考にし てきたのはカメラ雑誌の写真なんかではなく て、ジャズのレコードジャケットの写真だっ たし、立ち読みで見た「スイングジャーナル 」に掲載されていた、主に昔のジャズメンの 写真だった。LPが売られていた頃はジャケ ットが大きかったので、気に入った写真のレ コードを購入する喜びもひとしおだった。そ してよく言われることだけれど、ジャケット が気に入ったレコードは間違いなくその音楽 も素晴らしい。これは不思議だ。
 これはまたいつか別に書くと思うけれど、 ECMレコードのジャケットに使われている ヨーロッパの写真家のスナップ写真は、私が カラーで撮り始める呼び水のひとつになった し、ブルーノートレコードは、そのポートレ ート写真以上に、リード・マイルスによるジ ャケットのデザインが好きだった。私はEC Mではパット・メセニーのジャケットが特に 好きだし、ブルーノートではトニー・ウイリ アムスの「スプリング」とか「ハービー・ニ コルズ・トリオ」のジャケットが特に印象深 い。
 それにしても、昔のジャズメンを撮った写 真はどうしてみんなあんなに素敵なんだろう か。それに比べれば、最近のジャズメンを撮 った写真は見劣りがするものが多いし、ほと んどの日本の写真家が撮ったジャズメンの写 真は本当にどうしようもないと私は思う。写 真家のテクニックのひけらかしになっている 写真が多すぎるのではないか。日本の写真家 のさもしさがそこに現れているようにさえ私 は思う。その中で素敵なのは、中平穂積さん (このひとは「なかひら」ではなく「なかだ いら」と読む)やジャズの写真家というわけ ではないけれど、M・HASUIさんくらい ではないだろうか。私は、「アサヒカメラ」 を通じてM・HASUIさんから私家版写真 集「TOKO」を贈っていただいたことがあ る。亡くなったドラマーの日野元彦さんを撮 った素晴らしい写真集で、これは私にとって 大きな刺激になった。
 昔のジャズメンを撮った写真家で有名なと ころと言えば、チャック・スチュワートとか ウイリアム・クラクストンといったところだ ろう。彼らの写真には色気と気品がある。ジ ャズメン、そしてジャズという音楽に対する 愛情と尊敬が伝わってくる。だから、そこに はテクニックのひけらかしは一切無い。困難 な条件の下で撮っているのにもかかわらず、 あたかもさりげなく撮っているように見える のが凄い。
 音楽専門の写真家というわけではないが、 リー・フリードランダーもジャズメンの写真 をたくさん残している。ダイアン・アーバス の伝記によると、彼はアトランティックレコ ードと親しい関係にあったようで、このレー ベルに残されたオーネット・コールマン初期 のレコードのジャケット写真には彼が撮った ものがある。「ジス イズ アワ ミュージ ック」のジャケットには、カルテットのメン バーであるコールマン、ドン・チェリー、チ ャーリー・ヘイデン、エド・ブラックウェル が揃ってカメラを見据えている写真が使われ ているが、この写真が私は大好きだし、コー ルマンのファンの間でも、ジャケットを含め てこのレコードの評価は高い。野性と気品を 兼ね備えていて、見る者(聴く者)をひきつ ける力がある。そして、アトランティックで はなくてCBSだが、リー・フリードランダ ーはマイルス・デイヴィスの「イン ア サ イレント ウェイ」のジャケットも撮ってい る。この、マイルスのポートレートはアルバ ムの音楽にはややそぐわないような気がしな いでもないけれど、ポートレートとしてはと ても良い出来ばえだと思う。
 ところで、ジャズ専門のレコード会社とい うのは、ジャズが好きで好きで仕方がないひ とが身銭を切って始めるものだから、最初は プロの写真家を雇う余裕がないのが普通のよ うである。だから、写真のしろうとである会 社のオーナーやプロデューサーがジャケット 写真を撮影している場合がある。たとえば、 デンマークのスティープルチェイスレコード のジャケット写真はオーナーでプロデューサ ーのニルス・ウインターが撮っていることが 多い。その写真は無技巧なしろうと写真なの だけれど、そこには気品と愛情があふれてい る。プロの写真家の写真と比べて何の遜色も 無い。
 この辺が写真というメディアの素晴らしい ところかもしれない。しろうとであっても、 情熱と冷静さを両立させることができれば、 テクニックに目のくらんだプロを越えるのは 不可能ではないということだろうか。
 そんな素晴らしい写真を撮っているひとは 、少なくとも自分の写真については寡黙であ る。写真が素晴らしければ、そして素直であ れば、それについて語る必要は無くなる。よ ほど注意しなければ、言葉も写真も嘘になっ てしまうことを彼らはよく知っているのだろ うと思う。
 そして、こんなことを言うとあるいは失礼 なのかもしれないけれど、音楽の写真を撮る とき、写真家に身の危険が及ぶことはまずあ り得ない。たとえば、山岳や動物や戦争を撮 る写真家は常に死の危険と隣りあわせにいる 。また、裸を撮ればヒモに脅されるかもしれ ないし警察のお世話になるかもしれない。街 で道行くひとを撮る時だって、いつ誰に因縁 をつけられるか分からないのだ。音楽の写真 家にその種の危険は一切無い。
 ピアニストの秋吉敏子さんは「ジャズと生 きる」という著書の中で、カーレースの見物 に出掛けた時、音楽の世界はこの世界よりは 安易だなと思った、と書いておられた。カー レーサーは一瞬の判断ミスで命を落とすこと があるけれど、音楽家は舞台で失敗しても少 なくとも死ぬことはないと思い至った、とい うのである。だからこそ、舞台に上がる時は 命をかける覚悟でなければならない、と続け ておられる。これは、音楽家として地獄を通 り抜けてきた秋吉敏子さんだからこそ吐ける すさまじい感想だと思う。
 たしかに音楽家は舞台で死ぬことはないけ れど、すぐれた音楽家は常に命とひきかえに 音楽を紡ぎ出してゆく。たとえそれがくつろ ぎに満ちた優しいものであったとしても、音 楽家の身体の中では必ず、どこかしら常軌を 逸した格闘が続いている。早世の音楽家はそ のまま自分自身を燃やし尽くして死んでしま うし、長生きする音楽家はその営みから新た な力を得てゆくことになる。
 そして、それを撮影する写真家は音楽家の エネルギーを誰よりも強烈に浴びることにな る。この場合、写真家は特権的な聴き手とし て音楽家のそばにいるのではないだろうか。 そうであれば、写真家にできるのは、音楽家 を見守り、そのエネルギーを素直に伝えるこ とだけなのだろうと私は思う。写真家が小賢 しいテクニックを弄するのは、そのエネルギ ーから目を背けることであって音楽家への裏 切りであるし敵前逃亡に等しい。そもそも、 音楽を撮る写真家は前に述べたとおり身に危 険が及ぶことがないのだから、その覚悟と愛 情だけが音楽の写真に筋を通すのではあるま いか、と私は思う。

えらそうなことを書いてしまったけれど、 最後に以前「東京光画館」に掲載した明田川 荘之さんのライヴ写真を再びお見せすること にします。
 この写真を撮った時が、私にとって今まで で一番楽しい撮影だったのですが、それは、 気持ちが通じているひとが発するエネルギー を存分に浴びる幸せだったのだな、と思いま す。また撮りたいです。

蛇足、舞台で死んだ音楽家をひとりだけ思 い出しました。トランペッターのリー・モー ガンはクラブで演奏中に愛人に射殺されたそ うです。



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