もと転校生

今回は、私の少年時代の自分史めいたこと を書くのを許していただきたいと思う。

私は生まれてから引っ越しばかり繰り返し てきた。両親は岩手県盛岡市に生まれ育った 人だけれど、父は東日本を転勤して歩くサラ リーマンだった。そして私が生まれた頃、両 親は山形県の小国にいた。豪雪地であり、当 時は冬になるとまさに陸の孤島だったらしい 。それでも私が盛岡市生まれなのは、母が私 を産むために帰郷していたためである。
 ついでだからここで書いておくけれど、私 が元日に生まれたのも、身重の母が汽車の長 旅に揺られたせいだろうとのことである。二 月初めの出産予定が、紅白歌合戦が終わった ところで急に陣痛がきて何もかも間に合わず 、祖母の家に近所の産婆さんを呼んでそのま ま生まれてしまったそうである。同世代の知 り合いで、産院以外で生まれたというひとに 私は会ったことがない。
 生まれる時から私は人騒がせな男だったよ うである。それでも私は未熟児すれすれだっ たにもかかわらず、入院もせずに元気に育っ ていったらしい。ただ、はっきり確かめたわ けではないけれど、私は両親から離れて盛岡 の祖母の許で育てられていた時期があったら しい。私がおばあちゃん子で両親よりも祖母 になついていたこともそれで納得できる。
 幼い頃の写真を見ると私は女の子のように 髪を長く伸ばしているが、これはたまに遊び にくる祖母とでなければ髪を切りにいかなか ったためだそうである。父や母とは絶対に床 屋に行かなかったそうだ。私が二十歳を過ぎ て祖母が亡くなった時、まるで親が亡くなっ たように悲しかったのは忘れられない。ちな みに祖母の命日は元日、私の誕生日である。 祖母の死を知らされた時、闇の中で雪がしん しんと降り始めたのを憶えている。
 幼年時代の私は、祖母宅の縁側からサボテ ンの植え込みに転げ落ちたり、横浜のアパー トでは非常ベルを鳴らして住人全員を避難さ せたり、放っておくと何をするか分からない 、別の意味で手のかかる子どもだったようだ 。こうして思い返してみると、今にいたるま での私の人格の基本は幼年時代にすでに現れ ていたようである。三つ子の魂百までも、と はよく言ったものである。
 ちなみに、私の誕生日である一九六六年一 月一日は、二十歳のキース・ジャレットがア ート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャー ズで実質的な初レコーディングをした日でも ある。日付とは関係ないことだが、私はカル フォルニアでライヴ・レコーディングされた その「バタコーン・レディ」を大切に聴いて いる。ジャレットのピアノが弾む名演だと思 う。悪のりついでに記しておけば、泉麻人の 「B級ニュース図鑑」によると、その翌日、 東京では山田太郎という歌手が「新聞少年の 歌」という歌を歌っている途中に男に舞台で 殴られるという事件が起きている。
 で、私の一家は小国から埼玉県戸田、横浜 、再び盛岡、そして北海道函館に移ってここ で私は小学校に入学している。
 小学校は三回転校したので四校を経験した ことになる。入学したのは現在は函館市にな っている亀田町の鍛神小学校、二年生から三 年生の一学期までは山形市の第十小学校、三 年生の二学期から五年生の一学期までは山形 県東根市の東根小学校、そして卒業したのが 新潟市の下山小学校だった。幸いなことに中 学校から高校卒業まではずっと新潟市に住ん でいたので転校せずに済んだ。
 新潟の小学校ではずいぶんと陰湿にいじめ られて、その傷痕がいまだに身体に残ってい る(両親指の爪の生え際をえぐられたり、便 所で殴られて唇から滴った血が翌日みんなに 見つかって大騒ぎになったこともある。もち ろん私は黙っていた)。しかし、それ以外の 小学校では友達がたくさんできて、先生にも 可愛がっていただいた。転校後に前の学校の クラス全員から新しい学校あてに手紙をもら ったことがあるし、二年生の担任の先生とは いまだに年賀状のやりとりをしている。
 もっとも解剖学の養老孟司先生は、出来の 良い優秀な学生は卒業して縁が切れるとすぐ に忘れるが、手こずった学生は一生忘れない 、と書いておられる。私はずいぶんと先生を 手こずらせた生徒でもあったのだろう。
 いじめられた新潟の小学校だけは思い出し たくないが、それ以外の小学校の思い出は楽 しい。私は女の子にも人気があったと思うが 、女の子と仲良くなりかけるとすぐに転校し てしまったのが今思えばとても悔しい。そし て、どんなに人気があっても転校生は他のク ラスになかなか友達ができない。だから、東 根小学校で五年生に進級した時に初めてクラ ス替えを経験したのはとても嬉しかった。生 まれて初めて他のクラスにたくさん友達がで きたのだった。
 そして、五年生への進級と同時に小学校の 鼓笛隊に入ってトランペットを吹き始めた。 となりのクラスに好きな女の子がいたりして 、それが噂になったりしてあの頃は本当に楽 しかった。でもそれもつかの間、夏休みには 新潟に転校してしまった。その後新潟の小学 校を卒業して中学校のブラスバンド部に入る まで、トランペットを吹くのも止めてしまっ た。新潟の小学校時代は何もかも忘れてしま いたい。
 きっと誰でもそうだろうと思うけれど、私 は小学校の六年間のうちで、大人への扉がほ の見えてくる四年生から五年生の頃がいちば ん生き生きと楽しく記憶されている。つまり 、東根で過ごした二年間が私の少年時代だっ た。
 仲間どうしで春は雪融けとともに小川で小 魚をすくい、夏はかぶと虫やセミを追い、秋 は果樹園にしのびこんで果物をぬすみ食いし 、冬には裏山でスキー遊びやそり遊びに熱中 した。ゴムまりで野球をして、あちこちを「 探検」して自転車を乗りつぶし、どぶや川に 落ちたり公園の遊具から転落したりして生傷 が絶えなかった。でも不思議と大怪我や大病 をすることはなかった。
 学校の廊下ではテレビで見たプロレスの技 をかけっこするのに皆で熱中していた。東根 小学校はその頃創立百周年を迎えて新築の校 舎に移り、とても気持ちがよかった。ただ、 写生大会で私ひとりだけが木造の旧校舎を描 いたのをいまだに憶えている。
 少年時代、私は本当によく遊び、よく学び 、そしてよく読んだ。毎月購読していた学研 の「科学」についてきたピンホールカメラで 初めて写真も撮った。こたつの中でカメラに 印画紙をセットして、数十秒の露出時間で空 き地に停めてあった父の車を写した。それを 押入れにこもって現像し、風呂場で水洗して 乾燥させてネガ像を得た。こたつの中でそれ に新しい印画紙を密着させ、さらに露光して 反転させてポジ像を作った。改めて思い出し てみると、これが私の写真撮影と暗室作業の 事始めである。まさかその時は、自分が将来 写真を撮り続けることになるとは夢にも思わ なかった。
 それから、自分から続けたいと言ってずっ とエレクトーン教室にも通っていた。綺麗な お姉さん(先生)に手をとって教わるのが子 ども心にも嬉しかったのだろうと思う。ただ 、発表会になると男の子が私ひとりだけだっ たのは今考えても不可解である。東根までは それについて学校でとやかく言われることは 全く無かったのに、新潟に転校したとたんに クラスで音楽を習っていることで冷やかされ ていじめられたのは頭にきた。
 新潟に行かなくとも私はいずれいじめられ ただろう、という気はする。しかし、転校生 どうしで話し合うと新潟に来て初めていじめ られた、というひとがずいぶんいた。ある友 人は、田舎のことを「日本のチベット」と言 うのをもじって「日本のニイガタ」と言って 新潟を馬鹿にしていた。私の両親も、新潟に 来てから近所づきあいにはずいぶん苦労して いたようである。新潟の、よそ者に対してわ りと閉鎖的な気風は今もあまり変わらないよ うに思える。これでも私は新潟が好きなのだ けれど…

話がずれてしまったけれど、少年時代の思 い出に溢れた東根という土地から離れてもう 三十年近い時間が経つ。その間、私は一度も 東根を訪れていない。不思議なことに、懐か しく思い出すことはあってもそこを訪れたい という気持ちが全く起こらなかったのだ。そ して、それをこの三十年間一度も不思議に思 わなかった。
 美しい思い出を断ち切られたままにしてお きたかったのだろうか。転校が決まるたびに 、私は必ずクラスでお別れ会をしてもらった けれど、東根小学校のお別れ会が一番悲しく 記憶されている。考えてみれば、女性が私の ために泣いてくれたのは私の人生で今のとこ ろあの時だけである。その時もらった「天才 バカボン」と「三つ目がとおる」はいまだに 私の実家の本棚に並んでいる。本には贈り主 の女の子の名前が書かれている。その「天才 バカボン」を愛読したために私はその人格に さらに磨きをかけることになった。感謝しな くてはならない。
 その心の傷を直視したくなかったのかもし れない。無理にそれをすれば、私は転校の原 因を作った両親を憎まなければならなくなる 。それを回避するために、私には三十年もの 時間が必要だったのか。東根から離れて以来 、私の口癖は「転校を強要した両親を憎んで はいない。でも、私はそんな大人にはなりた くない。いつか私が親になったら、自分の子 どもに同じ思いは絶対にさせたくない」にな った。

高校を卒業して親元を離れてから、私は今 度は自分の意思で引っ越しを繰り返した。湘 南の藤沢、東京の世田谷、群馬の高崎(高崎 市内でも一度引っ越した)、再び新潟市、そ して長野の伊那、上田。
 写真家の青木慧三さんには「フォトセッシ ョンの引っ越し魔」と言われた。なにせ引っ 越しの家元というべき森山大道先生よりも、 私は引っ越しの回数と距離が多かったのであ る。ちなみに、森山先生も少年時代は転校を 繰り返した。初めて森山先生とお会いした時 はその話をした。後日考えてみると、森山先 生は学校嫌いだったけれど、私は学校は好き だった。それが違いだった。森山先生も「遠 野物語」で語っておられたけれど、私も少年 時代の引っ越しのおかげで写真家になれたの だと思っている。でも、いつか生まれてくる 自分の子どもにはあの思いを絶対に味あわせ たくはない。失礼をかえりみず詮索させてい ただければ、森山先生もご自身は数えきれな いほど引っ越しを繰り返しておられるけれど 、ご家族はずっと逗子にお住まいである。
 ともあれ、私は三十歳で上田に来て、それ から一年ほどすると急に引っ越しが嫌になっ てこの土地に落ちつこうという気になった。 小鳥が羽繕いの小枝を見つけたように、よう やく落ちつくべき場所を見いだしたのだった 。上田と私の生まれ故郷の盛岡で偶然にも同 じ町名があったり、町の風情や気候が何とな く似ているせいもあった。そして、生まれて 始めて私は土地に密着した暮らしという ものを体験できた。それがこんなに暖かいも のだということがこの年になってようやく分 かった。そして私の両親は老いつつある。私 の、両親に反抗する時代はいつのまにか過ぎ 去っていった。そうなれば過去の思い出を反 芻したところで両親を憎む気遣いはもういら ない…

先日、職場の片隅にころがっていた東根の さくらんぼの箱を見ていたら、この三十年の 間で初めて、そこを訪れたいという気持ちに なった。そして、その理由をどうしても書い ておきたくなった。
 …東根小学校の校庭にある日本一の大けや きはどうなっているだろうか。あの、鉄筋の 校舎よりずっと巨きな木。春から夏には青々 と茂る若葉、秋には降りつもる落ち葉。根元 にある大きな洞…私が今でも大きな木の写真 を写すのが好きなのはきっとあの木のせいだ 。それから、父が一度だけ連れていってくれ た小さなお祭りをやっていた近所の神社はど うなっただろうか。その時の暖かい記憶のお かげで、私は父を憎まずに済んだのだ。吉本 ばななが、そんな思い出がひとを自殺から救 うのだ、というようなことをどこかで書いて いた。その神社には小さな森があった。鎮守 の森…
 星新一の「ブランコのむこうで」のような 、そして井上陽水の「少年時代」のような私 の少年時代。
 三十年も経つと、もちろん町並みは全く変 わっているだろう。でもかつての痕跡はどこ かに残っているにちがいない。時刻表を見る と、今住んでいる上田から東根は時間的にそ れほど遠くない。三日あれば行って歩いて帰 ってこれる。行ったらモノクロで撮り歩いて こよう。東根には温泉がある。小さなユース ホステルもある。そこに泊まるといいだろう 。私はいまだに東根小学校の校歌を憶えてい る。ユースの主人の前で、長野からきた客が それを口ずさんだらさぞかし驚かれるだろう 。道を歩けば、知らず知らずのうちにかつて の同級生ともすれ違うかもしれない。いつ旅 に出ようか…



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