本屋をうろついていると、「働く理由」に
ついて解説した本が目につくようになった。
私のアンテナがそちら方面に向いているとい
うだけではなくて、確かにこの手の本は最近
増えているように思う。私だって生活のため
にやりたくもない仕事を続けるのはいやでい
やで仕方がないから、そんな本は一応店頭で
手に取って目を通してみることになる。
しかし、どの本もどうにも歯切れが悪く感
じられる。書き手が大学の先生や評論家だか
ら、どうしても読み手の現実とずれができて
しまうのかもしれないけれど、そもそもこの
問いから一般論を導き出すのは不可能なので
はないだろうか。つまり、最も切実な真理こ
そ書物に著すのが困難というわけである。
一生働かなくても済むお金や財産があった
らあなたはどうするか、と問われたところで
ひとによってその答えは千差万別となるはず
である。愚問に賢答なし、なのである。
私にしてみれば、そんな身の上になったら
今の勤めを辞めるだけの話で、あとは何も変
わりそうにない。写真を撮り続け、発表し続
け、旅をして、要するに今こうしてやってい
ることが職業になるというそれだけのことだ
。食べていくお金を得る作業だけが職業では
ないのだと思う。
そして、それだけではいずれ飽きがくるだ
ろうから農業のお手伝いや研究のようなこと
を始めて、これもいずれ職業になっていくこ
とになる。他に何かあるとしても、本当に今
の勤めを辞める以外に目新しいことは何も起
こりそうにない。そんな風にあれこれしたり
思ったりして生活しているうちに、せいぜい
百年足らずの人生は終わってゆくのである。
死んでしまえばお金のことを気にする必要も
ないし働く必要もない。
そもそも働くことは生きることと同義であ
ったはずで、そんな時代にはこんな愚問が生
じる余地は無かっただろうと思う。そこでは
労働という言葉さえ無かったのだろう。
お金という奇妙なものが肥大したおかげで
我々はこんな風に生かされてしまっているわ
けだが、それにしてもお金というのは説得力
のある幻想であってそれ以上のものではない
し、またそれ以下のものでもない。その幻想
の実体となるのは紙切れであり金属片であり
コンピュータの中の数字でありタイムカード
に刻印される時刻であったりするわけで、い
ずれにせよ子供の玩具に等しいような貧弱な
ものだと思う。その貧弱さとは余りにも不釣
り合いな圧倒的な力、そのアンバランスがお
金の魔力というわけなのだろう。
お金は良い召使いだが悪い主人でもある、
という外国のことわざがあるが、お金が肥大
してしまって、うかうかしていると悪い主人
にこき使われてしまうのが今の時代というわ
けである。その力を使って他人を従わせてや
ろう、という精神の貧民が幅を利かせている
のが諸悪の根源である。そんな連中の顔つき
は例外なく卑しいのですぐに判る。こちらが
卑しくなくとも、普通に生きていれば、そん
な厭味な連中と否応なしに付き合わされる羽
目になる。アホらしい世の中だと思う。
結局、お金に付随する幻想が生活を脅かし
ているわけだが、それに巻き込まれることが
なく、しかもそれなりに人並みの生活をして
いるというおめでたいひとが、冒頭に挙げた
ような愚問をもてあそぶのだろうと思う。そ
れを越えて、お金や労働についての「思考実
験」をするのはなかなか困難なことなのかも
しれない。
たとえば稲垣足穂は、仕事が好きになれな
いのなら、それを無給でやることを考えてみ
ろ、というようなことを言っている。また、
糸井重里は「お金持ちのおじさん」というゲ
ームを紹介していて、これは他人に何の理由
もなく百円をあげる遊びなのだが、これを「
お金をバカにする遊び」と説明している。こ
れについて「世の中に理由のないお金は存在
しない」というのは当たり前のことだけれど
名言だと思う。そして、養老孟司氏の本には
お金は脳内の信号の象徴である、という説明
がしばしばでてくる。氏が時折もらす、紙幣
は非常事態になれば焚き付けにしかならない
、というのも切実な話である。
お金をバカにするために、私が大金持ちに
なったらぜひやってみたい遊びは、高い所か
ら人混みに向かってお金を撒き、ひとびとが
群がる様子を見物することだし、今の勤めを
辞める時にぜひともやってみたいのは、社長
にもらった餞別の一万円札にその場で火をつ
けて燃やすことである。
要するに貨幣経済が発展しつくして、しか
も一応平和な今の時代にあっては、金持ちで
あろうが貧乏人であろうが、何もしないでい
ると退屈で仕方がないから仕事をしてやろう
、というような態度が一番まともなのではな
いか、という気がする。精神の貴族としての
庶民というわけである。私のように、自分ひ
とりの生活費のために鬱病になったり、旅も
思うままにならない境遇におちいるのは本当
にアホらしいと思う。
結局、仕事がお金に変換されるというのは
ブラックホールのような世の中の盲点なのか
もしれない。実体のある仕事がタヌキの化か
した木の葉かもしれないお金に変換されると
いうのは本当に奇妙なことだと思う。そして
、その「タヌキの化かした木の葉」が強大な
力を持つ…私は一生このシステムになじめな
いような気がして仕方がない。
…できることならあまりそういうことを考
えずに営々と仕事をしていたい。そんな中か
ら面白い生活やアートがきっと生まれるのだ
ろうと思う。
というわけで、それを目指すのが私の人生
のこれからの目標となるのであった。我なが
ら奇妙なものだと思う。
追伸、「マネー・ジャングル」というのは
デューク・エリントンのピアノ、チャールス
・ミンガスのベース、マックス・ローチのド
ラムスで吹き込まれたレコードのタイトルで
す。これは凄いですよ。ピアノもベースもド
ラムスも豪快に鳴るのです。相互に刺激しあ
う即興演奏をインタープレイと呼びますが、
これの本家はビル・エヴァンスではなくてエ
リントンです。
ビル・エヴァンスのインタープレイは、天
才ベーシスト、スコット・ラファロに引っ張
られて成り立っているものだと私は思います
。名盤「ワルツ・フォー・デビー」を聴くと
、エヴァンスのピアノは明らかにラファロの
ベースに振り回されている。負けている。そ
れに比べてエリントン、ミンガス、ローチの
インタープレイときたら!
ラファロの凄さはブッカー・リトルやオー
ネット・コールマンやスタン・ゲッツとの共
演を聴くと実感できます。管楽器と渡り合う
ラファロこそ、ミンガスに匹敵するベーシス
トのように思います。
エヴァンスについては、一度だけ見せても
らった生涯最後のライヴのビデオが凄かった
です。
さらに付け加えれば、エリントンに匹敵す
るくらいピアノを鳴らせたのはミシェル・ペ
トルチアーニだけだと思っています(ジョア
ン・ブラッキーンや明田川荘之も凄いけれど
ね)。ペトルチアーニのアイドルがエリント
ンだったというのもうなずけます。ペトルチ
アーニのビッグ・バンドというものをぜひ聴
いてみたかった。彼はクラシックのオーケス
トラと共演する計画を温めている途中に亡く
なってしまったのです。