カフカの父親、手紙、そして作品

カフカを初めて読んだのは高校生の頃だっ た。「変身」、「審判」、「城」、「アメリ カ」と引き込まれるように読み進んで、その 後は無数の断片や日記、手紙を読みあさって いった。十六歳を終える冬に私は長編「アメ リカ」(「失踪者」というのが本来の題名ら しいが)を読んでいたけれど、その主人公カ ール・ロスマンが奇しくも十六歳の少年であ ったから、女中に子供を作らせてしまったせ いでアメリカにひとり追いやられて彷徨する 少年のこの物語に、一番思い入れをこめて読 んでいた記憶がある。折しも新潮社から二度 目のカフカ全集が出ていた時だった。
 いずれにせよあまり深刻にカフカを読んで いたわけではなく、カフカというひとをあま りにも身近に感じて親しみをこめて読んでい たように思う。ちょうど、晩年のカフカに可 愛がられ、後年「カフカとの対話」を書いた グスタフ・ヤノーホ少年のように。
 私のクラスメートの中にもそんなふうに深 刻ぶらずにカフカを読んでいた友人は何人か いた。その中で今でもつきあいのある男は、 カフカの他にアンドレ・ジッドの「狭き門」 をぼろぼろになるまで愛読していた。そして 、彼と私がそろってお気に入りだった作家が サドとサン・テグジュペリだった。分かるよ うな分からないような不思議な組み合わせで ある。彼は工学部の経営工学科に、私は農学 部の農芸化学科に進学した。
 その時、私があえて写真で食べる道に進ま なかったのは、カフカの生き方にどこかしら 魅せられていたからだったような気がする。 カフカは職業作家ではなかったからだ。ただ し、彼のように生涯父親のもとから独立でき ずに健康を害し、四十一歳で死ぬ人生を歩む つもりはなかった。そのくらいの見通しは少 年だった私にもあったと思う。
 それにしても、あれほど父親との関係で苦 しんでいたのに結局そこから独立しなかった のは、あの親子は普通の親子以上にどこかで しっかりと結びついていたからだと今の私は 思う。彼の父親は恰幅の良い成功した商人で 、カフカの文学的な仕事にはあまり理解がな く、ずいぶん高圧的なところもあったらしい けれど、夜遅くまで小説を書き続ける息子と ずっと同居してあれこれ面倒をみてもいる。 衝突しながらも、どこかしら認め合っていた 親子のようにも思えるのだ。カフカ自身も父 親との関係について、「愛情は時折暴力の形 をとります。」とヤノーホ少年に告白してい る。
 ついでに付け加えておけば、カフカの死後 、彼の父親はげっそりとやせこけて息子の生 前とはまるで別人のようになっている。カフ カ本人が老いていたらこうなっていたのでは ないかといった風貌なのだ。そしてどういう わけか一緒に写っている彼の母親はそれほど 老けた印象はない。この写真は池内紀の「カ フカのかなたへ」の単行本に載せられている けれど、この写真を見た時私は息をのんだ。 親子、とりわけ父と長男(私も長男だ)の結 びつきというものについて何か大事なメッセ ージを受け取ったように思ったのだ。  カフカはやはりただの息子ではない。そん な風にも私は思った。彼の親友マックス・ブ ロートが後年述べたように、彼は静かな、そ してまれにみる強靱な魅力を放ちつつ生きて いたのだろうと思う。その魅力は彼の死後も 消えることはなく、たくさんの奇跡をひきお こすことになった。

そんなわけで、今は池内紀の「ちいさなカ フカ」という本のことを思い出している。こ の本の裏表紙の言葉をちょっと引用してみた い。
 歴史の不条理や官僚制を告発する、きわめ て深刻・まじめなカフカ−この定番のカフカ 像を手放すと、どんな新しいカフカが立ち現 れるか?
   このひと言でこの本の肌ざわりが大体伝わ ってくるのではないかと思う。カフカのひと と作品を片寄った思い入れなくあたたかく追 った素晴らしいエッセイだと思う。
 その冒頭の一章は「手紙の行方」と題され ている。カフカが恋人たちへ書き送った手紙 について書かれた文章だ。
 カフカは実にたくさんの手紙を書いた。そ れは、彼の全集の半分が手紙に費やされてい ることからも分かる。第二次世界大戦、ユダ ヤ人虐殺という歴史の荒波を乗り越えて残っ た手紙だけでこの量なのだから、実際にはも っともっとたくさんの手紙が書かれたのだろ う。そして、いまだ発見されずにどこかで眠 り続けている手紙もあるにちがいない。この 本はその可能性についても検討している。
 それにしても前述のようにカフカは生前有 名な作家ではなかった。目のあるひとびとか ら評価され、尊敬されてはいたものの、彼は 半官半民の役所に勤めながら、身を削るよう に文章を書き続けた。そして、独身を通しな がらもたくさんの友人や恋人、そして家族( 彼には三人の妹がいた)の愛情に包まれてい た。その中で彼は宿命的で暗黒のような孤独 を書き続けた。
 そんな不思議な魅力を持つ男とかかわった 女性たちは、彼から受け取った膨大な量の手 紙を何よりも大切に守り通した。初めてカフ カを読んだ時、私はそれに気づかずに手紙の 魅力にとらわれて読み進んでいったけれど、 改めてこの事実を指摘されると今さらながら 感動する。
   別に有名でもなかったひとりの男から受け 取った手紙を、送り主が死んでも、自分が別 の男と結婚しても、それから数十年経って戦 火に追われて祖国を捨てることになってすら 、彼女たちは手紙を守り通した。
 二度婚約して結局結婚できなかったフェリ ーツェ・バウアーは、別の男と結婚してアメ リカに渡り、カフカの死後四十年近くを生き たけれど、彼から受け取った五百通もの手紙 をずっと守り続けた。また、ナチスのユダヤ 人収容所で死んでいった恋人のミレナ・イェ センスカやグレーテ・ブロッホもずっと手紙 を守り続け、自分が捕まる直前に手紙を友人 に託した。
 つまり、自分の身体よりもかつてカフカか ら受け取った手紙を大切にしたのだ。このこ とが私を感動させる。むろん彼女たちは手紙 の文学的資料としての価値を重んじてそんな ことをしたわけではない。残された手紙と、 カフカという男の思い出が彼女たちにとって 何よりも大切だったからだ。この信じがたい 奇跡をいとおしみつつこの「手紙の行方」と いう文章が綴られている。
 その中にこんな一文がある。「彼女たちは カフカが書いていた小説をほとんど知らずに 終わったが、しかしながら、彼が何を書きた がっているのか、ちゃんと感じていたのでは なかろうか。その意味と、この上ない新しさ を、おぼろげながら知っていた。そしてわず かにのこった地上の痕跡を消さないために、 手紙をどこまでも守り通した。」
 もって瞑すべき、とはこのようなことを言 うのだろうか。

冒頭に書いたように、彼の全集の半分が手 紙に費やされている。そう言えば、ランボー やマラルメの全集も量的には手紙の方が多い けれど、詩人ではなくて小説家としてはこれ はかなり異例のことではないだろうか。
 カフカは、全ての作品を手紙のように書い ていた。今になって私はそう考えている。手 紙の主語が私であるか三人称であるか、宛て 名が自分か身近なひとか不明であるか、それ が彼の文章を日記か手紙か小説かに分ける因 子であって、いずれにせよその文章は全て手 紙のスタイルで書かれていた。
 そう考えると彼の作品の多くが未完である ことも、彼が生前自らの作品を公表するのに 熱心でなかったことも、死後一切の未発表原 稿を焼却するように言い残したことも理解で きる。この有名な遺言について、彼は公表さ れた作品まで消え去ることは望まない、とも 言っている。その作品たちは誰かの大切な思 い出になっているかもしれないから、という 意味のことを彼は付け加えていたと思う。ま さに手紙のように作品を考えていた証のよう な気がする。
 それがカフカの作品を特異なものにしてい る最大の理由だと私は思う。彼は世間に公表 するために書いていたのではなくて、どこか にいる誰かひとりのために書き続けていたの ではないだろうか。その目的は、必ずしも自 らが作品を世間に発表しなくとも叶えられる 。それをカフカは良く知っていたのではない かと私は思う。

ひるがえって考えると、これは私が思い描 く「写真」の在り様に極めて近いのだ。森山 大道先生がよく口にする、「写真の伝わり方 って細胞から細胞へ、みたいなところがある じゃないの。」という言葉を思い出してもい る。カフカの時代にはなかったインターネッ トがそんな在り様にまた別の力を与えている のも確かである。



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