ずっと以前、「カメラ毎日」に写真家の山
崎博さんが寄せたコメントを忘れられずに憶
えている。小さな窓がたったひとつ付いてい
る刑務所の独房はまるでカメラみたいだ、と
いう意味の話だった。決して開くことのない
その小窓がレンズ、反対側にある鉄格子がシ
ャッター、というたとえに奇妙に納得してし
まったのを憶えている。
生涯の三分の一を牢獄で過ごした作家サド
に魅かれて、その作品や伝記に読みふけって
いたのはそれに前後する時期だったし、その
頃は朝日新聞に連載されていた加賀乙彦の「
湿原」を読み続けてもいた。冤罪の長い長い
物語だった。それは、私が高校を卒業して初
めて見知らぬ土地でひとり暮らしを始めた時
期に重なっていた。その数年後、帝銀事件の
死刑囚にされた平沢貞通が獄中で死んだ。そ
の後、大学を卒業してまたしても見知らぬ土
地でひとり暮らしを始めた時、私は加賀乙彦
の「宣告」を初めて読んだ。死刑囚の長い長
い物語だ。そして、一昨年は哲学者池田晶子
と死刑囚陸田真志の往復書簡集「死と生きる
」を読んだ。
要するに、閉じ込められた知性、他者によ
って限定された生命とでもいうべきものに私
はひかれている。その想像を絶した悲惨や絶
望を含めてだ。今挙げたように、そのさなか
で正気を保ち続けるひとはおそらくほんの少
数なのだろう。大方のひとはそんな極限状況
の中で身も心も無残に崩壊してしまうのに違
いない。それでも、過酷極まりない闇の中で
ほんの少数とはいえ、このように常人が到達
し得ない高みに達するひとがいることは私を
本当に勇気づけてくれる。(ただ、冤罪の犠
牲になってしまったひとは別にして、彼らが
犯した罪をどう捉えればよいのか、残念だけ
れども今の私にはまだ言葉が無い。)
話がそれてしまったけれど、牢獄の中では
目の前の暗闇と心の闇が一致している。牢獄
は現実の暗闇であり、その中に閉じ込められ
た囚人の心の闇でもある。そして囚人に限ら
ず、実は全てのひとが心の底に闇を抱えてい
る。しかし、大方の人はそこから目をそむけ
たまま生き続けている。そこで唐突なたとえ
だけれど、闇を抱えたカメラという箱は、我
々の心の闇の象徴なのではないだろうか。
どんなカメラでもその中には等しく闇を抱
えている。それを仕切るシャッタ−がほんの
一瞬開き、暗闇の中に閉じ込められていたフ
ィルム(あるいは受光素子、以下同じ)に外
界の明るみを記録する。カメラのこの仕組み
は心のはたらきと全く同じだと私は思う。深
い闇の中に生きる我々の心を動かすのは時折
外界から差し込む明るみなのだから。
そう考えると、冒頭にあげたカメラと牢獄
のアナロジーが理解できそうな気がする。違
うのは、写真家はカメラの外にいるけれど、
囚人は牢獄の中にいるということだけだ。し
かし、あえて言えば、写真家は自らの網膜の
化身ともいうべきフィルムをカメラの中に閉
じ込め、カメラという闇によってろ過された
明るみをフィルムに定着する。そしてその映
像によって世界を認識しようとする…
まさにカメラとフィルムは写真家の心の瞳
なのだ。その謎めいた認識欲に憑かれた写真
家という人種は、カメラの外に広がる光の世
界とカメラの中に閉じ込められた小さな暗闇
のあいだを果てしなく往復する。それは現実
と心の世界の往復でもある。まるでシジフォ
スの神話を思わせる果てしない旅である。そ
れは永遠の牢獄にもなるし、果てしなく自由
な快楽の旅にもなる。写真というメディアの
持つ光と闇である。
単に現実を生きるためだけならそんな旅を
する必要はない。だから我々は心の闇を抱え
ていることから目をそむけようとする。あた
かも明るみの中でだけ生きているような偽善
を装う。しかし、写真家は心の闇の象徴であ
るカメラをまるでパスポートのように堂々と
持ち歩き、真の明るみや闇を捉えようとする
。写真家は現実と異界を往復する特権を持つ
ことになる。そう考えると多木浩二が書いて
いたように、写真家は確かに世俗の司祭なの
かもしれない。写真を撮られると生命が縮む
という俗信は、カメラが抱え込んでいる暗闇
、象徴として現れた心の闇に対する恐怖なの
だと思う。つまり、このパスポートは自他を
傷つける凶器にもなるのだ。
このことさえ忘れずにいるのなら、写真家
は心の闇を抱えていることを臆することなく
外界にさらす覚悟を貫く最もいさぎよい人種
なのだと思う。写真家はいつもカメラという
小さな闇、心の闇のシンボルを隠すことなく
持ち歩いている。このことを私は忘れずにい
ようと思う。
蛇足1
モノクロームの銀塩写真なら、写真家自身
が閉じこもる暗室という暗闇がさらに介在す
ることになる。暗室を牢獄にたとえたのは深
瀬昌久論における飯沢耕太郎だった。
蛇足2
カメラが抱えている闇が黒い粘液のように
この現実の世界に漏れ出てくるという夢想。
村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド
・ワンダーランド」に出てくる地底の怪物「
やみくろ」のように。
蛇足3
カメラの語源、カメラ・オブスキュラは確
か、「暗い箱」という意味だった。カメラが
発明された当時からひとはその暗闇の力を知
っていたのだろう。