桜の季節
桜が咲いている。東京ではすでに散ってし
まったけれど、私が住んでいる長野県では今
(四月上旬)が満開である。例年よりも三週
間位早い開花で、まさに季節外れというしか
ない。
それにしてもあれは一体何なのだろう。暖
かくなってはくるけれど、憂鬱にもなりがち
な季節に葉が出ることなく突然咲き誇り、あ
っという間にはらはらと散っていく花。そし
て花芯を残して散った後に、ようやく若葉が
出てくる樹。その下には落ちた花弁がふりつ
もり、花が散った枝には実が稔ることもない
。ほんの一瞬群れるように花開き、そして風
に舞って散っていく。
桜について語り始めると、ほめるにせよけ
なすにせよ否応なしに情緒的になってしまう
のも不思議である。絵や写真もそうだ。東松
照明が撮った桜でさえ、何らかの情緒性ある
いは政治性を帯びている写真がある。だから
、あの写真群の中の、誰もとりあげないさり
げない写真が私はとても好きだ。
その、東松照明が撮った桜について上野昂
志氏が書いていた文章の中で、桜は一輪で鑑
賞されることのない花で、いけ花で使われる
ことのない花である、という記述がずっと私
の記憶に残っている。やはり桜は特異な花な
のである。そして、開花時期が限られ、色が
淡く、風に揺れやすく、しかも奥行きを持っ
て群れる桜花を明晰に撮影することがいかに
困難かを東松照明が語っている。もしかした
ら、それをなしとげる執念が東松照明の情緒
性や政治性との執拗な闘いなのかもしれない
。桜を撮る写真家は数知れないけれど、東松
照明ほどそれを明晰に捉える写真家はおそら
くいないだろう。
咲き誇る桜は、そんな写真家の執念を拒む
ように群れて揺れている。その中の花一輪は
霧の粒子のようにもやもやとして心もとない
。樹が一本で一輪、桜はそんな花なのかもし
れない。その茫洋とした曖昧さが桜の魅力で
あり妖しさなのだろうか。
思い切り感傷的なことを言わせてもらうと
、緑が萌えだした山肌に群れる満開の桜は、
私には春の女神のため息のように見える。そ
して、それはまさにため息のようにあっとい
う間に消えていってしまうのだ。
花が散って、その花弁が土に帰って消えて
しまうと桜の樹は緑に萌える若葉に覆われる
ことになる。季節は初夏を迎え、山にも里に
も街にも緑が色濃くなっていく。その力強い
姿をこそ私は美しいと思っている。待ち遠し
い。