期待 忘却

数年ぶりに心の病が再発してしまって、あ まり良く眠れない夜が続いてしまった。と言 っても前回ほど重症ではなくて、今のところ とりあえず小康状態を得ている。あの地獄に 踏み込むのはもう二度とごめんだから、この まま季節の移り変わりに沿って心も春を迎え たいと思う。今回は心の寒の戻りということ で収めておきたいと切実に願っている。
 それにしてもよく眠れないのは何よりも辛 い。医者に処方してもらった薬を飲むととり あえず眠ることはできるけれど、薬による眠 りというのはやはり不自然なもので、夜明け 前に急に目醒めることになってしまう。そこ で改めて睡眠薬を飲むには半端な時間だし、 飲んでしまえばその日の午前中は薬の作用を 残したまま、さらに朦朧として過ごさねばな らない。そんなわけで、寝床の中で冷や汗を かきながら夜が白んでいくのをじりじりと感 覚し続けることになる。
 ふだんならばそんなまどろみの時間を過ご すのは大いなる安らぎでさえあるのだが、心 が病んでいる時はそれは何にも増して辛い。 身体は眠りたがっているのに頭がひたすら悪 い方に冴えているからだ。
 その間、思い出したくない記憶に苛まれ、 未来への不安に脅かされることになる。「後 悔はしない」というのが私の何よりのスロー ガンなのだけれど、そんなものはどこかへ吹 っ飛んでしまって、今までの人生を点検して は別の可能性を考えてみたりする。そして夜 が明けるとやってくる未来への不安に怯え続 ける。だから早めに寝床を出ることもできな い。要するに、頭が過去と未来にばかり向い てしまって現在を生きる意欲が無くなってし まっているのだ。
 未来を予測し、自分がいつか死ぬことを知 っているのは人間だけだろうし、それが心の 病の源だという説は確かにそのとおりだと思 う。とすれば、もしかしたらその反対に過去 を懐かしむことさえ心の病のひとつなのだろ うか。私には分からない。
 生命はひたすら現在を生きることしかでき ない。そしてその燃焼こそが生命の最も美し い姿であることは私も知っている。人間は、 現在をより良く生きるための機能であったは ずの記憶や予測の能力が肥大した結果、心を 持ち、そしてその病をも抱え込むことになっ た。あの辛い夜明けのまどろみの時間から、 私はそれを身を切られるように実感すること になった。
 余談だけど、我々が、人間以外の世界に特 別な美と憧れを抱くのはそのせいなんだろう か? 人間ほど過去と未来に縛られているも のはこの世に存在しないから…

こうして、あの辛い体験を文章にすること で、私は少しずつ救われていくような気がす る。そしてもちろん、今回の体験は私の写真 家としての在り方にも微妙な影を落とすこと になるだろう。なぜなら、カメラが捉えるの は常に現在であるけれど、次の瞬間にはそれ は過去になってしまう。そして撮影後ある時 間を経て現れるその映像には未来への示唆が 必ず含まれている。だから、この病気のせい で私には「過去はいつも新しく、未来はつね に懐かしい」と言うことはもうできなくなっ てしまっている。その題の本を書いた森山大 道先生には失礼かもしれないけれど。それよ り今の私に深く納得できるのは「写真は光に よる時間の化石である」だ。
 現在のこの一瞬一瞬を生きること、心の病 をのり越えるには結局これしか無い。そして 、些細なことかもしれないけれど、うっとう しくなってきた髪をなじみの理髪店でていね いに切ってもらい、いつものように別所温泉 につかることで何とか再起のきっかけを得た 。その前に久しぶりに四谷のプレイスMで写 真家の青木慧三さんにお会いできたことも嬉 しかった。病んだ心を癒すのはひとの心だ、 という暖かい真理を実感することにもなった 。皆さんどうもありがとう。

追伸、タイトルの「期待 忘却」というの はモーリス・ブランショの小説のタイトルで す。手許にありながらいまだに読んでいない けれど、ようやく読む時が来たのかもしれな い。今はちくま学芸文庫から出ているブラン ショの「明かしえぬ共同体」をぱらぱらとめ くっている。この表紙の写真も好きです。一 九六八年のフランス五月革命の群衆の写真で す。

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