オリンパス、マニュアルカメラの未来のために

ついにオリンパスがOMシステムの販売を 終了すると発表した。私の行きつけのカメラ 屋さんに問い合わせてもらったら、その発表 と同時にOM−3Tiはメーカー在庫が無く なってしまったそうである。OM−4Tiは 急遽追加生産が決まったとのことで、予約す れば四月か六月にこれは手に入るらしい。
 この文章を書いているのは二月の初めで、 今度出る「アサヒカメラ」の三月号ではOM システムの特集をやるそうだから、そこでも しかしたらまた別の動きがあるのかもしれな いが、私がずっと憧れていたOM−3Tiを 新品で手に入れるのはどうやら不可能になっ たようである。噂によれば、この発表と同時 にOM−3Tiの中古市場での価格は三倍に 跳ね上がったらしい。すでに幻の名機である 。オリンパスのサービスセンターの電話は鳴 りっぱなしだというし、オリンパスの銀塩カ メラ部門の責任者は涙を流して泣いていると いう話も聞いた。
 銀塩の、しかもマニュアルのカメラの終焉 はこれで決定的ではないか、という見方が支 配的だけれど、私は決してそんなことはない と思う。仮に新品の銀塩マニュアルカメラの 生産が全てのメーカーで終了してしまっても 、我々の手許にはすでに何百万台ものカメラ がある。それはまさに楽器のように永遠に引 き継がれて生き続けていくはずである。
 以前私が書いたことの繰り返しになるけれ ど、銀塩の、しかもマニュアルのカメラは何 百年も引き継がれてきたヴァイオリンの名器 のように生き続けていくだろう。そう考える と、マニュアルのカメラの歴史はこれから始 まるとさえ言って良いのではないか? ヴァ イオリニストが古い楽器にこだわるのを懐古 趣味とは呼ばないように、写真家が古いカメ ラを使い続けるのも単なる趣味ではない。古 いカメラが最新のカメラやデジタルカメラと 共存している限り。
 百五十年以上にもなる銀塩写真技術の歴史 、そしてその集大成とも言えるマニュアルの 一眼レフにはそれだけの魅力と底力があると 私は思っている。そこに現在のカメラメーカ ーがどのようにかかわっていくのか、それと もメーカーの手を全く離れて専門の修理屋さ んや職人さんの手に委ねられるのかはまだ判 らないけれど。
   そんな風に考えていくと、我々は今確かに 時代の変わり目を生きているのかもしれない 。ヴァイオリニストが名器ストラディヴァリ ウスが造られた遠い昔に想いをめぐらせるよ うに、未来の写真家たちは二十世紀終わりの 、銀塩のマニュアルカメラが完成された時代 を思い起こすことになるのだろう。
 ところで、私の手許には生まれて初めて所 有したカメラであるOM−1N(ブラック) とOM−4Ti(シルバー)があって二台と も元気に動いている。どうやら私はずっとこ れを使い続けていくことになるようである。 特にフルマニュアルのOM−1Nは完璧に修 理が可能らしい。まさに一生ものである。そ れに気づいた時、お釈迦様の手のひらの孫悟 空のように、私は一生写真家であり続けるこ とをまたしても自覚してしまった。ずっとO M−1Nから離れられないのである。かなし いようなうれしいような複雑な気持ちである 。むろん、それほどのカメラに最初にめぐり 会った幸せと、それを世に送りだしてくれた オリンパスへの感謝をこめて。
 この二台を使い潰さないように、他のカメ ラのラインアップを考えることにしたい。フ ジフィルムのクラッセが欲しいと思っている 今日この頃である。
 そして、憧れのOM−3Tiは、いつの日 かそれが本当に必要になった時に中古屋さん を探して手に入れて、オーバーホールをかけ て自分の物にすることにしたい。それはきっ と、私に長い間外国をさまよって写真を撮る 機会がめぐってくる時だろうと思う。
 今はとりあえず、ボディよりもレンズの方 が手に入りにくくなるだろうから、すぐに使 う予定はないけれど、ズイコーの180ミリ レンズを手に入れておくことにした。いつの 日かコンサートの写真を撮る機会が必ずめぐ ってくると確信しているからだ。それが何時 になるか…ずっと楽しみにしている。そう言 えば、100ミリレンズを手に入れて、それ が役に立つまで十七年かかったことを思い出 す。去年の今頃、画家の瀬下ゆり子さんのポ ートレートを100ミリレンズで撮らせても らって、それが彼女の個展が開かれたパリの 画廊に飾られたのだ。
 それにしても、これほどまでユーザーに愛 されるカメラという機械は本当に幸せだと思 う。たとえば、家電製品は大切にされること はあってもこんな風に愛されることはおそら く無いだろう。言うまでもないことだけれど 、カメラは写真家と共に生き続ける機械なの である。
   私が銀塩写真から離れられないのは、その プロセスに人間の息づかいが濃厚に感じられ るからだと思う。以前、私にとって写真は錬 金術のアナロジーなのだと書いたことがある けれど、結局それは科学の力を借りて、「私 」の様々な可能性を実験する装置と言っても 良いのかもしれない。そして、当然のことな がら、その可能性を押し開くために必要と思 われれば、私にはべつにデジタルカメラを拒 否する理由は無い。

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