クラインの壺をめぐる「私」

私の身に余ることは承知の上で、「私」と 宇宙の関係、その構造をずっと考えている。 それはべつに日常から遊離した純粋な概念な どではなくて、生活していくこととぴったり 寄りそった自然な営みのような気がする。
 私にとって、その関係の中核に写真がある ように思える。撮ることと考えることの総体 が今のところ私にとっての写真だということ になる。しかし、そんなことを書くのは正直 に言ってずいぶん情けない。そんな言葉を吐 くほど私は写真を撮ってはいないからだ。本 当の「写真生活」が始まった時、私が今書こ うとしていることが説得力を持つのだと思う 。今は何を言っても駄目だ。
 ただ、私がずっとたどり着くことを夢みて きた「写真という迷宮」の入口にはそろそろ さしかかってきたのではないかな、という気 は不遜ながらしないでもない。そして、それ は先細りの迷宮ではなくて、もっと広大で重 層的でしかも開かれた自由な場所であるよう に感じる。そこを旅することを私はずっと夢 みてきたし、そこには世界と私の全てが含ま れることをすでに私は知っている。生活も、 感情も、知識も、記憶も、宇宙も、ひとびと も。
 そんな自由を生きるために最も大事なこと が、「私」と宇宙の関係をふくよかに、しな やかに保っていくことではないかとずっと感 じてきた。変なたとえだが、「私」はコンピ ュータの画面上のカーソルのようなものでは ないか、という気がするし、余談ではあるけ れどその意味でコンピュータは「私」のアナ ロジーなのかもしれない。
 要するに、「私」は異なる世界を結ぶ接点 であるように思う。その意味で「私」はこの 世界の特異点なのだ。特異点を論じると全て の理論が破綻してしまうのはまるで物理学に よる宇宙論を思わせるが、「私」を殺すこと なく精確に論じ切るにはそれと同じだけの困 難と危険が伴う。
 だから今の私には説得力を持って「私」を 論じることはできないし、写真という自由を まだ生きていない以上、その成果を写真で示 すこともできない。私が今いちばん悔しく思 っているのがそれだ。
 ただ、そんな自由を目前にして、今自覚し ているのは「私」と宇宙は常に逆説的につな がっているのだという確信だ。その逆説は位 相幾何学に出てくるクラインの壺を思わせる 。今いる場所は内側でもあり外側でもある、 というシンプルにして謎めいた迷宮である。 そして、ある種の強靱さを獲得してしまえば 、その逆説がそのままで究極の自由になる。 このように、逆説について考えること自体も 美しい逆説になる。逆説が逆説を呼ぶ「無限 」である。それを生きるのは少なくとも苦痛 ではないように思う。それは「永遠」の愉楽 を生きることになるのではないか?
 ところで、私が初めてクラインの壺を知っ たのは、筒井康隆の初期の短編「腸はどこへ いった」(「にぎやかな未来」所収)だった 。それを私は小学校六年生の時に読んだが、 今にして思えば「にぎやかな未来」は、その 後の私に決定的な影響を与えたように思う。 そのこともいつか書いてみたい。
 その後、私がめぐり会ったクラインの壺を 思わせるイメージは、坂田靖子の「浸透圧」 (「闇夜の本2」所収)に出てくる異次元の 膜(?)タクパウルスである。この作品に限 ったことではないのだが、「浸透圧」の背景 に描かれる「なんだかよくわからないもの」 は、クラインの壺のような「私」と宇宙の関 係の象徴に思えて仕方がない。そんな謎めい たよくわからないものを、よくわからないま まにコミカルに提示してしまうこのマンガは しなやかな奇跡としか言いようがない。いま さら言うまでもないことだけれど、坂田靖子 はすごい。

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