「アンダーグラウンド」は小説家の村上春
樹が地下鉄サリン事件に遭遇したひとびとを
誠実にインタヴューして成った膨大な記録で
あり、そこにフィクションははさまれていな
い。才能ある小説家が歴史に残る大事件に対
して、あえてフィクションを紡ぎ出す能力を
捨ててそのような本を制作したことに、私は
現実とフィクションの鮮やかな関係を見る思
いがする。
それはともかくとして、この本を読んで私
がいちばん衝撃を受けたのは、凄惨な事件現
場からの報告よりも、そこに登場する普通の
ひとびとが、なぜあの朝、東京の地下鉄に乗
り合わせることになったのか、というそれぞ
れの人生の軌跡だった。
そこにはまさに、ひとびとの普通の人生が
語られている。そして、地下鉄サリン事件と
いう悪夢のような事件に襲われるまでは、当
人もとりたてて語るほどではない平凡な人生
を歩んできたと思っていたことがそこから分
かる。しかし、その平凡な人生は、どんな書
物にも書かれていない、血がかよった人生で
あったことが鮮やかに伝わってくる。あえて
言えば、彼らは「地下鉄サリン事件の被害者
」として語られるべきではないのだと私は思
う。
そして、我々が生きている「世間」は、そ
んなかけがえのない個人の巨大な集合である
。その裏を返せば「個人」を自覚しなければ
「世間」もあり得ない、ということになるだ
ろう。そんな当たり前のことを我々は忘れて
いたのではないだろうか。それを気づかせて
くれる書物は今までそう無かったように思う
し、それを作り上げたのは村上春樹の誠実さ
が成し遂げた奇跡と言って良いのかもしれな
い。
それまで、事件をひき起こしたオウムと何
の関わりもなかったひとびとが、平凡に生活
していたがゆえに、あの朝地下鉄に乗り合わ
せることになり、無差別にサリン事件に遭遇
した。そして命を落とし、あるいは心身に深
い傷を負ったひとがいた。その傷は被害者の
周りのひとびとにも及んだ。しかし、そんな
悪夢としか言えないような事件に巻き込まれ
ても、平穏な日常を取り戻そうと懸命に生き
続けるひとびとがたくさんいる。インタヴュ
ーの仕事を続けるうち、村上春樹は言葉を失
い、ひとびとの言葉を必死に聴き取ることだ
けに集中していく。それを読む我々読者も言
葉を失い、ひとびとの、つまりは我々の言葉
を聴き取ろうと耳を澄ませるようになる。
それが、村上春樹が今までその全ての作品
を通じて執拗に語ろうとしてきた、闇の世界
の言葉を聴き取ろうとすることにつながり、
さらには地下鉄サリン事件で命を落としたひ
とびとを悼むことにつながり、この事件で傷
を負い、衝撃を受けたひとびとをいつの日か
癒すことにつながる。そう私は信じたい。
そして、この事件をひき起こしたオウムの
連中も、そもそもは、この地上の世界では求
められそうにない真理や救いを求めて集まっ
てきたひとが多かったはずだ。教団名がオウ
ム「真理」教となっていたのがそれを示して
いるだろう。不幸なことに、その「真理」が
いかにまやかしで暴力的であったかを彼らは
見抜くことができなかったし、我々もそれを
批判することが全くと言っていいほどできな
かった。オウムが世間に登場した頃、我々は
そこに薄気味の悪さや愚劣さを感じ取ること
はできても、それを明晰に批判して否定する
ことが誰にもできなかった。
今考えると、それは驚くべきことだと思う
。我々が無力だったのは、彼らが「アンダー
グラウンド」、つまり我々の闇の部分であり
、そこには地上と裏返しではあるけれどよく
似た世界が存在していたからではないか、と
いう仮説がこの本の最後に提示される。
これは恐ろしい指摘だと思う。そのあまり
の正確さを私は疑うことができない。結局、
我々は彼らでもあり得た、ということなのだ
から。
そうであれば、地下の闇とそれに相応する
地上の闇、つまり我々の心や歴史の奥底に隠
されている闇、そして地上に存在しながらも
今まで見過ごされてきた具体的で日常的な闇
に、我々はあまりにも無関心でいたのではな
いか、ということになる。
地上の光が暴力的に強ければ、それだけ地
下の闇も深くなるだろうし、その場合「真理
」はこのふたつの総体として現れるはずであ
る。そして、村上春樹が小説の中で語ろうと
してきたのが、地上と地下の双方に対称的に
存在する闇の世界ではなかったか。
どんな種類のものであれ、闇を直接語るこ
とは極めて難しい。むしろそれを血のかよっ
たフィクションとして語る方が普遍性を持つ
ことがある。逆に言えば、闇の全体を語るに
は、個々の事実を述べるよりも高度なフィク
ションを提示する方がふさわしい場合がある
。その意味で、「アンダーグラウンド」と村
上春樹の小説は「闇」を中心にして見事に対
称的な関係を成していることになる。「アン
ダーグラウンド」は村上春樹の小説を彼自身
が全く逆の方法で検証した試みであったとさ
え言えるような気がする。この本は、村上春
樹の小説家としての力量を最大限に発揮した
誠実なドキュメントなのだと私は思う。
そして、ここに文学の、あるいはアートの
特権的で強大な力を見ることができるのでは
ないか? 要するに、闇を探り当てて検証す
るフィクションの可能性を見抜くことができ
ずに、それを絵空事と言ったり現実逃避と言
って馬鹿にすることは、現実の広がりと深み
を軽んじることになるという逆説的な結論に
到達するのである。
これは、文学やアートを作りだす人間にこ
そ強く求められる規範なのかもしれない。も
し、闇の存在がもっと広く説得力を持って我
々の前に提示されていたら、あのような教団
が力を持つことはなかったはずなのだ。いっ
たい何に目がくらんで、我々はあんな集団の
存在を許してしまったのか。
繰り返しになるが、我々は現実の恐るべき
広がりと深みを甘く見ていたのではないだろ
うか。そして、それにかかわることができる
アートの力をすっかり忘れていたのではない
だろうか。その上、我々はアートを空虚で怠
惰な権威に貶めていたように思う。そもそも
アートは「異界からやって来る正しく圧倒的
な力」である。それを軽んじて異質なものや
目に見えないものを排除して成り立つ社会は
、いずれ自らの中から現れる愚劣な異分子に
よって蝕まれることになる。生物学や免疫学
から連想される教訓はこのような局面で恐ろ
しいほどに正確である。
余談ながら、すでに科学によって示されて
いた教訓をその時思い出していた科学者もほ
んのわずかしかおられなかっただろう。多田
富雄先生と南伸坊さんの「免疫学個人授業」
という本を私は今、読み返している。
闇を具体的に、あるいは象徴的に語ること
が文学の可能性であるとしたら、具体的な、
あるいは象徴的な闇を発見して提示すること
が写真の可能性なのかもしれない。
荒木経惟、桑原甲子雄、長野重一、内藤正
敏、倉田精二、山内道雄…東京の闇を発見し
続けてきた写真家は私が知るだけでもたくさ
んいる。そこにこの秋、森山大道の「新宿」
が加わることになる。いまだその片鱗をかい
ま見たことさえ私は無いが、撮影された西暦
二〇〇〇年の新宿の闇がそこには確実に渦を
巻いているはずである。それは森山大道の「
東京写真」の決定版になることだろう。私が
願うのは、その写真集がたくさんのひとびと
の目に触れてほしいということだけだ。
私はと言えば、いまだに怖くてカメラを持
って都心を歩くことができない。とにかく都
心が怖い。
過日パリを訪れた時、初めての異国の町を
独りで撮り歩く方が怖いはずなのに、なぜか
パリは本当に安らいでなつかしかった。どう
してなのかいまだによく分からない。