サドの想い出、そしてこれから

今どき、「表現の自由」を楯に裁判を起こ して負けた小説家がいる。その名を口にする ことさえ汚らわしいと私は思っているので、 それをここに記すことはしない。皆さんご存 じのはずである。
 まあ、あれは売名行為なんだろうけども、 あの程度の見識と神経で小説家として通用し てしまうのだからやっぱり日本はろくなもん じゃない、と思えてしまうのがなんとも情け ない。
 それで思い出すのは、今から三十年以上前 に争われた「サド裁判」である。私は残念な がらそれを同時代で体験しているわけではな いが、澁澤龍彦や中村稔の文章を読んでいる とその熱気が今も伝わってくる。
 司法とか裁判所とかいうものをハナから馬 鹿にしていた澁澤は、裁判を饗宴に変えてし まった。それはサドの思想からしても当然の 帰結である。裁判に負けることなど最初から 分かっていたことであり、それはサドと澁澤 の栄光でさえあった。
 吉本隆明、埴谷雄高、遠藤周作、大江健三 郎…といったきら星のような証人が出廷した 法廷はそのまま演劇の舞台の様相を呈し、今 思えばこの裁判自体がサドの作品に登場する 挿話に似ていた。そして、この裁判は他者を 傷つけてはいない。まさに饗宴である。これ を文学の勝利と言わずして何と呼ぶべきか。

「表現の自由」が何なのかを私に教えてく れたのもサドの作品と伝記、そしてそれを美 しい日本語で提供してくれた澁澤であった。 高校生の頃、私はサドの「悪徳の栄え」と澁 澤の「サド侯爵の生涯」を幻惑と恐怖と陶酔 と欲情をもって読み通した。特に、「悪徳の 栄え」をその頃に読んだのは私にとってかけ がえのない経験となった。それは目の前の現 実に押し潰されそうになっていた少年に、世 界の広さと深さを確実に教えてくれたのであ る。そしてサドは自由や孤独というものの特 質を色々な形で教えてくれた。その極上の愉 楽と底知れぬ怖さをも。その中に「表現の自 由」もあった。
 「表現の自由」は私が私に対して闘って勝 ち取るものであり、そこに他者や社会、まし て裁判所が介在する余地は無い。孤独との孤 独な闘いなのである。サドの教えを今、言葉 にしてみるとそういうことになる。写真の世 界に置き換えてみれば、その闘いは写真家の 数と同じだけあるはずだし、それはひとりひ とりの写真家が生きている限り続く。こうし て書いてみると当たり前のことだし、ちょっ とこそばゆい思いもするけれど。
 ただ、澁澤が亡くなってもう十五年近い時 間が過ぎた。その間にますます訳の分からな いことが増えたように思う。サド裁判の時代 どころか、澁澤が亡くなった八十年代でさえ もはや懐古の対象である。パット・メセニー の「80/81」というアルバムの日本盤C Dが出たのが九十年の年明けだったが、その 時の帯に記されていた言葉が忘れられない。 「古き良き八十年代を代表する名盤」。
 ところで、サド研究は澁澤の没後にフラン スでも日本でも大きな進展を遂げたらしく、 その概要は岩波書店から出た「文学」という 雑誌のサド特集号を読めば分かる。没後二百 年近くを経て、サドはいまだに変貌を続けて いる。それもサドの魅力である。
 結局私にとってサドという作家は、少年時 代に強烈な刺激を与えてくれただけの作家で はなくて、これからずっと、一生おつきあい していく大切な作家なのである。あの、サド の大長編をゆっくり読み返すことができたら 今の私は何を得るのだろうか。奇しくもモー リス・ブランショの論文のタイトルでもある 「サドの理性」を、もはや高校生ではない私 はどう受け止めるのだろうか。そして、サド が激しく憎んだキリスト教のモラルから最も 無縁な二十一世紀初頭の日本で、サドの戦慄 はどう作用するのか。
 もしかしたら、サドこそがモラルの基準な のかも知れない。



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