記録と表現のメビウスの輪

「細江英公の写真1950−2000」と いう写真集が出た。タイトルで分かるように 、細江先生のこれまでの仕事を集大成した貴 重かつ立派な本である。
 ついでに記しておけば、私が面識も無いの に「細江先生」と申し上げる理由は、その写 真に戦慄していたことの他に、先生が館長を 務めておられる清里フォトアートミュージア ムでの講演(内藤正敏さんがゲストだった) に参加し、その終了後にミュージアムの入口 で遠くから細江先生に会釈をさしあげたら、 思いがけず大変ごていねいなおじぎを見ず知 らずの若造である私に返して下さって恐縮に 思った記憶があるせいである。
   そして私の行きつけの上田市のカメラ屋さ んの話では、細江先生は時折上田市の写真愛 好家の集まりに顧問として出席されていると のことである。私がいろいろお世話になって いるカメラ屋さんのおじさんは、「そこで細 江先生に会ってみたらどうですか」と私に勧 めて下さったけれど、その時の私には特に伺 ってみたい事柄も無かったし、細江先生にお 見せするだけのプリントも持っていなかった ので、そのお話は無かったことにさせていた だいた。もしいつかお会いする機会が再びあ れば、私は先生にまずお礼を申し上げなけれ ばならない。

話を冒頭にあげた本に戻そう。この本には 細江先生の写真の他に、いろんなひとの手に よる文章も収められている。その中でもとり わけ、細江先生自身による「ステートメント 2000 写真とは?−細江英公の球体写真 二元論」という文章が凄い。
 その文章の中で、かつての細江先生はご自 身の「薔薇刑」に寄せられた三島由紀夫の文 章を引いて、「美術や写真評論の専門家でな い文学者によって、これほど明快かつ的確な 写真論が書かれたことに驚嘆させられた。」 と述べられている。
 記録と表現を同時に抱え込まざるを得ない 写真というメディアの特性を、ここに引用さ れた三島の文章は実に明快に分析している。 その論旨を現在の細江先生は次のように要約 される。直線(線分)の一端に「記録」を置 き、もう一端に「表現」を置き、この座標の どこに写真家は位置すべきか、という二元論 である。しかし、この二元論は硬直しがちで あり、写真の実際にそぐわないものであるこ とも細江先生は指摘されている。私としても 失礼をかえりみず意見を述べさせていただけ れば、そこには余りにも古典的で整然とした 美しさがあって、どうも心から納得すること ができない。
 それは私が三島由紀夫という作家をどうし ても好きになれないという個人的な理由にも よるのだろうが、これに似た議論は三島のち ょうど百年前、写真が誕生して間もないフラ ンスにおいて、詩人ボードレールが友人の写 真家ナダールに対して行っていたような気が するからでもある。つまり、いくら三島の分 析が優れていても、写真というメディアにつ いての議論はこの百年間にさほど進展してい ないのではないか、という思いがあるのだ。 くりかえしになるが、この種の議論は、記録 と表現の融和を目指すように見えても、少な くとも私には全くそのようには思われない。 記録と表現が分かちがたくいりまじって成立 する写真というメディアを、そのような硬直 した座標軸で議論すること自体、写真の本質 と相反することではないのか。
   ともあれ、記録と表現を対立させる考え方 にはまってしまうと身動きがとれなくなって しまうのだ。マン・レイの名言「芸術は写真 ではない。」はシュルレアリストの言葉遊び ではなくて、写真のしなやかさに追いついて いない芸術に対するいらだちや、記録と表現 を安易に対立させる議論への彼の写真家とし ての怒りが込められているように私には思え る。
 それを克服するために、細江先生はここで 「球体写真二元論」を提唱されている。限ら れた直線の座標軸で記録と表現を対立させて 写真を評価する従来の方法を脱却し、まっす ぐ進めばやがて元に戻ってくる球面上の座標 を採用する。その球の両極が「記録」と「表 現」である。そしてそこからも逸脱していく 写真の可能性を包容するため、球面が膨張を 続けてそこに写真の新たな領土が生まれると いう四次元の座標を設定している。

と、ここまで書いてきたところで年が明け た。なんと二十一世紀である。なんだかもや もやと気が晴れなかった。三島由紀夫といい 、細江先生といい、要するに私の手に余る相 手に食らいついているからなのだ。
 新潮文庫から、養老孟司氏の「身体の文学 史」という本が出た。この本の、特に三島に 関する部分を読むと私の非力が今さらながら 良く分かる。私に今一番必要な文をここから 引用する。
 「なぜ自我をそこまで防衛する必要がある か。肉体の実存について言いたいなら、意識 化された自我などというものは、たかだか千 五百グラムの脳の、それもそのごく一部の機 能に過ぎない。それを銘記すべきではないか 。」
 この文を読んで涙が流れた。養老先生のや さしさが痛いほど伝わってくる。
 もうこれで全ては言いつくされているのだ が、ここで私の文を終えるのはますます見苦 しいから、あえて続きを付け加えておくこと にする。

 「記録」と「表現」というのは、同じ事象 の異なる断面に過ぎないのではないか?
 全ての芸術作品、つまり表現は芸術家の行 為の記録である。全ての記録は世界精神の表 現である。そして芸術家の個性は世界精神の 象徴である。それで良いではないか。細江先 生も語っておられるように、このふたつはメ ビウスの輪のように地続きで裏返って繋がっ ている。その関係が最も顕著に現れるメディ アが写真なのだが、それこそが写真の可能性 ではないか。
 それが分かれば我々写真家はもう何の迷い もなく写真を撮り続けることができるはずだ 。見ろよ青い空、白い雲・・・
   ところで、完璧な体系というものはよろし くない、という意味のことを、二十世紀の物 理学や数学や論理学は明らかにしてしまった 。これは人間の限界を意味しているのではな くて、この宇宙の構造がそもそも不完全だか らなのだ、と私は考えたい。つまり、埴谷雄 高の言葉を借りれば、「この宇宙は出来が悪 い」。全ての不条理や悲喜劇はおそらくそこ に起因する。時間が一方向にだけ流れ去って ゆき、決して帰ってこないというのもそのひ とつだ。だからこそ、この宇宙、つまり世界 精神は記録され表現されることを欲する。そ のために我々写真家も存在する。それを私の 結論としたい。
 蛇足ながら、私の最愛の短編小説のひとつ である小松左京の「あなろぐ・ら・」(「ゴ ルディアスの結び目」所収)から引用してこ の文を終えることにする。
 「人間そのものはむろん、完全じゃないで しょう。・・・しかし、宇宙だって人間が論 理的に考え出した、幾何学的な円とか球とか にくらべれば、はるかに不完全でがたがたじ ゃありませんか。(中略)そして、人類の方 は、宇宙全体がほろびるずっと前にほろびる でしょうが、その時までに、もうちょっと宇 宙そのものについて精密な計算ができて、人 類がほろんだあと、宇宙そのものは、人類が 予測した通りにほろびるかも知れない……。 」

さらに蛇足。もし、養老先生に写真史を書 いていただいたら、前代未聞の素晴らしい出 来ばえになるのではないか。題して、「身体 の写真史」。安井仲治、土門拳、東松照明、 細江英公、森山大道、荒木経惟、写真家たち の身体についての態度が余すところなく語ら れるだろう。



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