カメラという楽器のために

先日、ローライフレックスの二眼レフを修 理に出した。テッサー七五ミリが付いた、も う三十年近く前のモデルである。修理代がな んと六万円もした時は冷や汗が出そうになっ たけれど、その出来ばえは素晴らしかった。 動かなくなってしまった巻き上げを直しても らった上にフィルムの圧板が新しくなり、フ ォーカスノブの動きも実になめらかになった 。やや頼りなく感じられたこともあった低速 シャッターの精度も回復して、その音を聴い た音楽家の友人は「古い精巧な時計のようだ ね。」と言った。
 彼によれば、弦楽器の修理には十万単位、 時には百万単位のお金がかかるそうで、それ に比べればカメラの修理代など安いものであ る。しかも、ローライフレックスのような完 全な機械式のカメラならこうしてオーバーホ ールしておけば一生ものである。どうやら機 械式のカメラは機械よりも楽器に近いような 気がする。
 私は写真に出会う前、中学校のブラスバン ド部でトランペットを吹いていたので、楽器 を酷使し慈しむ音楽家の気持ちを想像するこ とはできる。写真を始めてから今にいたるま で、私はかつて楽器を手にしていた体験をず っと忘れずにいたように思う。写真家にとっ てカメラとは、音楽家の肉体と共に鳴る楽器 と同じではないかと思う。その、肉体と共に 楽器が鳴る快感が音楽家を、そして写真家を 支えている。音楽家が楽器を慈しむ現場を、 私はサックス奏者の梅津和時さんのエッセイ で読んだし、ピアニストの明田川荘之さんの 「弾き込むほど手が柔らかくなっていった。 」という言葉にも感じていた。
 だから、どうしてカメラがなければ写真は 写らないのだろう、という写真家の嘆きは、 どうして楽器がなければ演奏できないのだろ う、という音楽家の嘆きに等しいように思う 。そして皮肉なことに、そんな嘆きを漏らす ほどのレベルに達した写真家や音楽家は、カ メラや楽器が自らの肉体の一部となって、さ らにそれに踊らされる(と言っていいだろう か?)至福の時を生きることができるのであ る。その時、全ての雑念は消え去って意識は 別の世界を旅している。
 そんな状態は宗教家も体験することなのだ ろうが、写真家や音楽家はそれをアートとい う言語で語ることができるのである。芸術家 の特権というべきだろう。至福の体験を思念 に終わらせることなくこの世界に美しく放つ ために、写真家にはカメラ、音楽家には楽器 という具体的な「物」が必要になるというこ とだろうか。つまり、芸術家の肉体や知性と 異界を媒介するのは抽象的な観念ではなく具 体的な物質である必然があるのかもしれない 。それは物質であるがゆえに観念というエネ ルギーを帯びて、日常と異界をつなぐ奇跡を 可能にするのだと思う。何だか質量とエネル ギーが同等に扱われる物理学の臨界点みたい だ。

話は変わるけれど、橋本治の「二十世紀」 という本の前書きに、工業製品の大量生産の 時代はすでに終わり、人間による職人的な生 産に時代は移っていくべきではないか、とい うような意見が述べられている。「疎外され た労働」ではなくて、「労働から疎外された 」人間を変えてゆくにはそれしかない、とい う意味だと私は理解している。
 この意見からはいろんなことが引き出せる と思うけれど、私がまっさきに考えたのはカ メラのことだった。つまり、カメラはもはや 大量生産される工業製品から手工業的に作ら れる楽器のような存在に移行していくべきで はないか、ということだ。
 大量生産される工業製品としてのカメラは デジタルにまかせて、写真家が使う銀塩のカ メラはもはや楽器のように生産され、修理さ れ、引き継いでいくべきものになったのでは ないかと私は感じている。銀塩のカメラはす でに完成しつくされているのだから、これか らはひとの血が通った手工業品として永遠に 生き続けることを考えるべきだと思う。もち ろん、楽器にも入門者用の廉価なものがある ように、銀塩のカメラにもそれが必要である ことは言うまでもない。
 日本のカメラメーカーにもそれは可能なの ではないか? アフターサービスを完備して 、法外な値段になることなく銀塩のカメラ( 私の好みとしてはマニュアルフォーカスの、 機械式カメラ)を永遠に作り続けていくこと は可能なはずだと思う。しかし、日本のカメ ラメーカーはどうもその辺の姿勢が見えてこ ないので私は安心できないのだ。もちろん、 これまでカメラを使い捨ててきた写真家の姿 勢にも原因はあるだろうけども。
 信頼できる楽器職人や調律師(管楽器奏者 の場合は歯医者も必要である)がいてくれて 初めて音楽家が活動できるように、写真家に もそんなメーカーや修理屋さんがずっといて ほしい。ひと握りのプロだけでなくて、写真 家を自覚する全てのひとにそんな環境があっ てほしいのだ。
 そんなわけで、私としては愛用のオリンパ スのOMシステムをそういった体制に移行し てずっと存続させておいてもらわないと困る のである。OMのカメラは私にとって手にな じむ美しい楽器なのだから。ニコンやキヤノ ンやペンタックスやミノルタや…他の日本の カメラを愛用する写真家もそれぞれ同じ気持 ちだろうと私は思う。



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