夢語り、みたび

最近、朝まどろんでいられる時間が少し増 えたせいか、夢をよくみているような気がす る。そのほとんどは目覚めてしばらくすると 忘れてしまう夢なのだけれど、この現実に戻 る前になにかしら別の世界をさまよっていた という実感は日々確実に蓄積されてゆく。
 現実というのはそんな夢や記憶や実際に起 こらなかった可能性まで含めて成立している ものだ、と私はずっと思い続けてきたけれど 、むろんそれでこの現実が磐石なものに思え てくるわけではない。夢の世界同様に、覚醒 した現実もアナーキーな修羅なのだという静 かな覚悟を毎朝目覚めるたびに迫られること になる。それを生きる痛みだなんて言ったら いろんなひとに笑われることはよく分かって いるけれど、それでも私はこれから一生そん な風に朝を迎えていくのだろうと思う。
 毎朝目覚める前にみ続けている夢にしたと ころで、そのほとんどは特に快い夢ではない 。カフカの日記や「観察」のような、意味を 求めても仕方のないような切れ切れの断章で ある。しかし、それゆえに夢も、あるいはカ フカの断章も不思議な価値をはらんでいると 言ってよいだろう。
 夢の八割は快い夢ではない、という調査が あるそうだが、これを評して養老孟司氏は「 人生は夢」とどこかで書いておられた。つま り、快いことがほんの少ししか無いという意 味では人生は夢と似ているという希望の無い 見解である。
 それでも私は夢をみ続けていくし、それを 踏まえてこれからも日常を生きていく。そん な覚悟を迫られる時、きまって思い浮かぶの がフランツ・カフカというひとなのだ。
 ユーモアにあふれ、静かな魅力をたたえた 不思議な男。私がイメージするカフカという ひとは、身を削るように文章を書きながらも 、それをどこかしら優雅に味わっていた異邦 人と言ったらよいだろうか。
 周囲に信頼されていた有能な官吏であった カフカ。しかし、彼は職場のデスクから窓越 しにプラハの街を見下ろす時、そこに一体何 を見ていたのだろうか。たくさんの友人や恋 人や家族の愛情(と私は思う)に囲まれなが らも、そんな素敵なひとびととかわす会話の 中に、彼は一体何を聴いていたのだろう。
 そんなカフカの日常を想像することが、私 自身の夢と現実の関係を考えることにどこか でつながっているのではないか、という奇妙 な確信が私にはある。そして、日常の中に夢 を透視し、そこにさらに宇宙の広がりまでを 感覚していた生き方を感じる時、私は少しは 安らかな気持ちになれる。夢みるひとどうし の、孤独ゆえの連帯がそこにあるような気が するからだ。それを信じるのは決してカフカ に対して失礼ではないだろうと私は思ってい る。
 もし、いつの日か私がプラハの街を歩きな がらそれを感じることができたらとても幸せ だろうと思う。そしてもちろん、そこにはカ メラが介在することになる。その時、写真は 現実と夢の双方を透視してとり結ぶメディア になるのだ。その予感はパリやシャルルヴィ ル・メジエールやランスでも、あるいは盛岡 や新潟や鳥取の岩井温泉でも、あった。


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