アナログからデジタルへ愛をこめて

ふだん私はずっとCDを聴いているけれど 、時折無性にLPレコードを聴きたくなるこ とがある。少し疲れている時だろうか。そん な夜には、ふだんあまり聴かないレコードを かけることになる。
 スタン・ゲッツの「スイート・レイン」を 聴くと、ゲッツのテナーサックスはまさにベ ルベットのように優雅で官能的なんだな、と 分かるし、「ビリー・ホリデイ アット J ATP」をLPで聴くと、彼女の歌の深みと 幅の広さが少しは分かったような気になる。 マイルス・デイヴィスの「イン ア サイレ ント ウェイ」もビル・エヴァンスの「ワル ツ フォー デビー」もLPの方がCDより ずいぶん心地よい音がする。つまり、LPは 耳にやさしいように感じるのだ。そうすると 武満徹のLPも一枚手に入れておくべきだっ たな、と思う。「ノヴェンバー・ステップス 」をLPで聴くといったいどんな音がするん だろう。その音に憧れている。
 しかし、だからと言って私がマニアックに LPを支持するわけではないし、十年くらい 前に買った「ローランド・カーク・パーフェ クト・コレクション・オン・マーキュリー」 CD十枚セットは、LPと聴き比べても遜色 のないあたたかい音がする。これはおそらく 制作に当たった児山紀芳氏の愛情と判断のな せるわざなのだろう。要するにアナログ録音 された音をデジタルで完全に再現することは 可能であるらしい。
 努力すればアナログのあたたかさをデジタ ルで再現することは可能なのに、今まで我々 はデジタルの新しさにかまけてそれをないが しろにしてきたのではないか、という気がし ないでもない。アナログは古いけれどもバラ ンスのとれた成熟した技術であり、デジタル は可能性を秘めた優れた技術ではあるけれど 、まだ成熟したものであるとは言い難い。そ しておそらく、アナログはデジタルに飲み込 まれて消えていく技術ではないと私は思う。 異なる原理で成り立つ技術はそもそも似て非 なるものであって、それは対立させるのでは なく協調させるべきものであるはずだ。
 ところで、世界は全てデジタル化(数値化 )して捉えることが可能であるし、それによ ってあらゆる事象が完璧に説明できるはずだ 、というのは実は十九世紀までの古い考え方 である。その考え、というより信仰が古典物 理学を完成させ、さらにその破綻を見いだす ことになったわけだけれど、その破綻が二十 世紀の量子物理学を構築することになった。 それは、世界は決定論で語りつくすことはで きないという認識である。そして、デジタル 技術(電子技術)を支えているのは実は量子 物理学である。つまり、デジタル技術という のは古典物理学的な信念と、その破綻が導い た量子物理学の原理が生み出した矛盾をはら んだメディアである、と言えるのではないか と私は思う。そして、その矛盾こそがおそら くデジタルの可能性である。
 最近になってようやく、数値化できない情 報を取り込むという方向にデジタル技術は進 みつつあるようで、これはデジタルが成熟へ の道をたどりつつあるということなのだろう 。それでも、数値化し難い微妙なニュアンス を現すということにかけてはアナログにも分 があるのではないかと私は思う。
 音楽に話を戻せば、シンセサイザーがこれ だけ発達してもアコースティックの楽器はべ つに衰退しているわけではないし、逆にそれ がデジタルの楽器を排除しようとしているわ けでもない。ふたつが美しく共存することは 可能なのである。また、いかにアコースティ ックにこだわる音楽家であっても、その音楽 が今やデジタル技術によって伝達され記録さ れていることを認めないわけにはいかないは ずだ。
 写真だって同じだろうと私は思っている。 記録し、伝達することにかけてはおそらくア ナログはデジタルにかなわない。しかし、微 妙なニュアンスを現すことにかけては私はア ナログの可能性を信じたいと思う。それは概 念よりも肉体を優先させたいと言い換えても いいのかもしれない。概念はともかく、生き た今現在の肉体、つまり人生を完全に数値化 することは不可能であるはずなのだ。まして やそれを操作することも。可能なのはその軌 跡を数値化し、操作することだけだ。そして 、それに関しては明らかにデジタルがアナロ グに優る。
 ……いずれにせよ、私はアナログで制作し 、デジタルでそのメッセージを遺すハイブリ ッドフォトグラファー(?)の道を歩むので あろう。


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