お金のゆくえ

今からもう十年以上前、バブルが華やかだ った頃、TVの「オレたちひょうきん族」で 「ラブユー貧乏」という替え歌が流行ったこ とがあった。確かこんな歌だった。
 ♪お金だけが生き甲斐なの、
  忘れられない
  貧乏、貧乏、涙の貧乏
 という他愛ない歌詞で、歌のあいまにはコ ントがはさまれていた。銀行のATMから千 円未満の金額はおろせないのを知らなくてう ろたえた、とかいうコントだったと思う。
 もちろん私もそれを見て笑いころげていた のだけれど、あれと同様の歌とコントをもし 今TVで流したら、笑いのネタになるどころ か怒りの声が殺到するのではないかという気 がする。
 あの頃は貧乏が健全かつ刺激的な笑いの対 象になるという雰囲気があった。土地と株の 値段がどんどん上がり、世の中全体が小金持 ちになって、今思えばおかしなことがずいぶ ん横行していた。
 裏付けのないままお金がたくさん流通して 、それを誰もさして奇妙と思わず、やがてお 金がお金を産むマネーゲームに多くの人がの めり込んでゆき、そしてバブルの崩壊と底無 しの不況を迎えた上、お金の信用を踏みにじ る政策の連発を受けて我々は今日に至ること になる。お金を支える(はずの)労働の実態 は旧態依然、悪いまま大して変わっていない けれど、労働の概念はその間にとんでもない 方向に変わってしまった。
 金(きん)という裏付けを離れて以来、お 金にはすでに実体が無く、信用だけで流通し ているものだということは中学や高校でも習 うことだけれど、そのお金を辛うじて支えて いた労働というものを、あのバブルの時代は お金からかなりの程度切り離してしまったよ うな気がする。
 今さら私ごときが言うことではないけれど 、信用と労働という裏付けを致命的なぐらい 失ってしまった現在のお金は、タヌキやキツ ネが化かした木の葉と大差ないのではないか という気がしてならない。朝起きてみたら世 の中の全ての紙幣が木の葉に戻り、全ての硬 貨がどんぐりに戻ってしまっているのではな いか、と思うとずいぶん寝付きが悪くなって しまう。
 確か中学生の頃、お金の起源と特徴につい て学校で習ったことがあった。お金は物々交 換の補助手段として生まれ(構造主義によれ ばそれは怪しいということを後年私は知るこ とになる。どうして中学生にそういうことを 教えないのだろうか。)、お金はそれ自体で は何の役にも立たないが、労働や商品と交換 され、金融機関に貯蓄されることで価値を生 み出す、云々。そんな話は今の中学生にはお そらく通じないだろう。そもそもお金の実態 を今学校では教えているんだろうか。投資や 株式の話も私は学校の先生の口から聞いた記 憶は無い。
 それはともかくとして、裏付けをほとんど 失って木の葉同然となってしまったお金が、 なぜいまだにある力を持って流通しているか というと、お金の情報(信号)としての一面 だけは今なお優れた説得力を持っているせい ではないかと私は思う。信用や労働という裏 付けを失ってしまったお金は、今や情報その ものになってしまったのだと思う。
 ところで、養老孟司氏の「唯脳論」には、 お金は脳の神経細胞間でやりとりされる信号 のアナロジーだという説明がある。例えば音 と光という本来無関係なものを等価交換する ことによって言語が成立する。それは全く無 関係なものを交換させるお金の機能の根源で ある、ということらしい。
 抽象性と互換性と蓄積性と比較性において お金に勝るメディアが今のところ存在してい ないから、お金は辛うじてお金であり続ける ことができるわけだけれど、その情報として の性質の全てにおいて、お金を上回るメディ アが出現してしまったら、もしかしてお金は 消滅してしまうのではないか、と思うことも ある。
 電気製品が水道水のように普及した時、世 の中が変わるのではないか、と若かった頃の 松下幸之助は考えていたというけれど、イン ターネットが水道水のように廉価に普及した 時(つまりインターネットがお金という足か せから自由になった時)、もしかしたらお金 はインターネットに吸収されて消滅してしま うのではないだろうか。つまり、脳内の信号 のアナロジーであったお金は、インターネッ トという人工の脳の中に帰っていくのではな いかということだ。
 情報としての性質の全てにおいて、インタ ーネットを飛びかう情報はお金にはるかに勝 る。しかも、それは光の速度で流通し、抽象 性とお金には決定的に欠けている具体性を見 事に兼ね備えている。お金に勝ち目はあるだ ろうか。
 インターネット、あるいはコンピュータネ ットワークがお金を浸食する兆候はすでに現 れているように思う。過日発行された二千円 札が全く流通していないのは、コンピュータ ネットワークが二千円札を全く受け付けてい ないからだろう。二千円札を持っていても自 動販売機や金融機関のATMを使うことがで きない。お金に残された最後の性質である情 報という特質を吟味すると、二千円札はお金 として見事に失格なのである。
 そして、コンピュータネットワークが二千 円札を受け入れようとしないのには、もっと 深い理由があるのかも知れない。今やコンピ ュータの信号を補佐するものでしかないお金 には、二千円という単位がそもそも全くそぐ わないものではないのだろうか。自らにそぐ わないお金を、おそらくコンピュータは排除 するのである。
 ところで、私は「資本論」に目を通したこ とは全く無いけれど、マルクスはその理論が 実現されたユートピアにおいてお金が消滅す ることを夢みていたという。ところが、今ま で人類が経験してきたどんな社会においても 、一度発生したお金が消滅することはなかっ た。しかし、歴史の進展によってお金の機能 が情報だけに限られてしまった上で、情報と してお金を上回るメディアが出現してしまえ ば、もしかしたらお金は本当に消滅してしま うのではないだろうか。
 その、お金が消滅した世の中において価値 を持つのは、ひとりひとりがどれだけ豊かで かけがえのない情報を発信できるかというこ とに尽きるのではないかという気がする。経 済がもしかしたら精神や技術やサービスや学 問や芸能や芸術やエロティシズムと同義にな ってしまうのかも知れない。そんな世の中を 私はユートピアと呼んでみたい気がする。



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